横浜市港北区師岡町〜樽町
熊野神社市民の森
Visited in October 2017
横浜市港北区のほぼ中央部、やや東寄りに位置して、「熊野神社市民の森」が設けられている。港北区師岡町の北東部に鎮座する師岡熊野神社の社叢林と、その北東側の天神山一帯の緑地とを合わせて「熊野神社市民の森」としたものだ。両者は少し離れているが、同じ地域に位置するということで一つの「市民の森」とされたのだろう。周辺は住宅地だが、緑地内は鬱蒼と木々が茂り、町の喧噪を忘れて散策を楽しむことができる。
師岡熊野神社は724年(神亀元年)に全寿仙人によって開かれたという古社である。境内に設置された師岡熊野神社略記に依れば、全寿仙人がこの地に不思議な霊威を感じ、梛(なぎ)の木のうろに住んで日夜祈り続けたところ、ある日の夜明け、夢枕に熊野大神が立たれた。お告げに従って大和国春日明神に籠もり、神霊を得た後にこの地に帰り、熊野大神を祀った。和歌山県熊野山に鎮座する熊野三社の祭神と御一体であるという。
1529年(享禄2年)に北条早雲から、1599年(慶長4年)に徳川家康から、1643年(寛永19年)には徳川家光、1665年(寛文5年)には徳川家綱から御朱印地が与えられたのをはじめ、代々の将軍家からの崇敬は篤く、神社への御朱印は幕末まで続けられたという。
明治になって神仏分離令によって熊野神社と法華寺とに二分、1870年(明治3年)に県社となったが、氏子の陳情によって1873年(明治6年)に33ヶ村の郷社に列している。現在の社殿は「平成の大修造」を経たもので、2005年(平成17年)と2014年(平成26年)の二度に渡る造営事業によって覆殿、翼殿、参集殿、手水舎などに新築や改修が施されている。
師岡熊野神社には毎年1月14日に行われる「筒粥神事」という神事が伝わっている。竹筒や芦の筒などを入れて粥を煮て、筒の中に入った米粒の数で豊凶や作柄を占うというもので、「師岡熊野神社の筒粥」として横浜市の無形民俗文化財にも指定されている神事だが、この「筒粥神事」に、この「『の』の池」の水が使われるそうである。
「『の』の池」は背後の崖の崩落などから守るためか、周囲をコンクリートや石によって補強されている。この辺りの改修も「平成の大修造」の際に行われたもののようだ。その景観は少しばかり風趣に欠けるが、これからもこうして大切に守られてゆくのだろう。
参道の石段を登り詰めたところの左手に聳えるスダジイ、社殿に向かって左手にはイヌシデとアカガシ、そして社殿裏手のシラカシとイチョウ、それらが「みくまの五木」だ。それぞれスダジイには子孫繁栄と厄除招福、イヌシデには五穀豊穣と開運、アカガシには恋愛成就と身体健全、シラカシには病気平癒と火伏、イチョウには繁栄長寿と無病息災と、各樹木の特徴などからの“御利益”が記されたプレートが付けられている。
要するに「みくまの五木」が師岡熊野神社の“御神木”ということなのだろう。長い年月を経てきた古木のそれぞれを見てゆけば(あるいは、拝んでゆけば)、それなりに御利益がありそうに感じるから不思議だ。樹木に興味のある人なら師岡熊野神社の古木群はぜひ見ておきたいものだろう。
広場の隅に「師岡貝塚」に関する解説板が建っている。この丘には「師岡貝塚」、あるいは「権現山貝塚」と呼ばれる貝塚がある。貝塚の規模は東西約20m、南北約15m以上と推測されるそうだ。この貝塚は「縄文海進」で形成された古鶴見湾岸に分布する縄文時代前期貝塚群の中でも保存状態がよく、市域でも類例の少ない中期前半の貝塚として貴重なのだと、解説には記されている。「縄文海進」によって海面が上昇した時代、この丘から見える樽町の辺りは深く入り込んだ湾だったのだろう。現在の風景の中に古代の景観を想像してみるのも楽しいひとときだ。
弁天社の建つ“半島”によって池は(一部は繋がっているものの)左右に分かれ、その形状がひらがなの「い」を思わせることから「『い』の池」の名が生まれたともいう。「『い』の池」の500mほど西のところにはかつて「『ち』の池」があった。師岡熊野神社の社殿裏手には「『の』の池」があるから、これらの三つの池を合わせて「いのちの池」と呼ばれたそうで、昔の人々の水に対する思いの表れだろうという。
この解説版によれば、平安期の885年(仁和元年)、中納言藤原有房(ふじわらありふさ)が朝廷の勅使として熊野神社に参向した。この広場は熊野神社を面前にして儀式に臨むところだったということで、昔から「式坂」と呼び慣わしているのだという。ちなみに神奈川区の「大口」や神奈川区大口通の「足洗川」、神奈川区西寺尾の「面滝」といった地名は、この時の参詣道であったことに因むものだそうである。
「天神平広場」を抜けてさらに東へ辿ってゆけば「明神通り」の名のある坂道を下ってゆく。下り終えたは樽町の杉山神社である。杉山神社境内も「熊野神社市民の森」の区域外だが、散策の際には併せて立ち寄っておきたい。
「熊野神社市民の森」は天神山周辺の林地の散策も楽しいが、特に初めて訪れた際にはまず師岡熊野神社へお参りしておきたい。古社らしい風格の堂々とした神社である。周辺が住宅街となった中で今もなお鬱蒼と木々の茂る「熊野神社市民の森」は、地元の人々にとって貴重な自然環境であることだろう。春の桜や新緑の頃、秋の紅葉の頃にも再び訪ねてみたいと思わせる林地である。