横浜市港北区綱島台
綱島市民の森
Visited in May 2011
横浜市港北区、鶴見川の北側に広がる綱島地区は比較的平坦な地形なのだが、その中に島のようにこんもりと木々の茂った丘が横たわっている。その地形からか、丘の周辺の地域には「綱島台」の町名が与えられている。丘の東端部分は「綱島公園」として整備されており、桜の名所としても知られている。綱島公園から西へ連なる尾根は基本的には私有地だが、現在「綱島市民の森」として整備され、一般にも解放されて憩いの場として利用されている。
「綱島市民の森」は綱島公園から連なって東西に延びる形で横たわっている。“市民の森”の名にふさわしく、こんもりと木々の茂った丘を成し、住宅街の広がる中に“緑の島”のような様相を呈している。中心部には「ひのきの森広場」が整備され、その横手には「大北谷神社跡」が残る。西端部分には「桃の里広場」があり、尾根道を辿っての散策が楽しい。
「ひのきの森広場」はその名が示すようにヒノキの林にテーブル付きベンチなどを設置して“憩いの場”として整備したもののようだ。「広場」というほど広くはないが、尾根上の平坦な部分を利用して設けられている。整備の手が行き届いているからか、それほど鬱蒼とした感じはなく、上を見上げればヒノキの枝々の隙間から空が見え、そこから落ちてくる木漏れ日が爽やかだ。訪れたとき、散策の途中だろうか、ベンチのひとつで一休み中の人の姿があった。お弁当でも持ってくれば手軽なピクニック感覚でアウトドアランチが楽しめそうだ。
「ひのきの森広場」から少し西へ降りたところに「大北谷神社跡」がある。「神社跡」とはいってもそれほど広い敷地でもなく、特別な遺構が残っているわけではない。尾根道の途中に少し広くなったところがあり、北側から登ってくる石段が残されているだけだ。「大北谷神社」について記した案内板が設置されている。「大北谷」は「おおきたや」と読むそうだ。1599年(慶長4年)に飯田家の祖先飯田助太夫によって建てられたもので、開墾や新田開発を司る神様を祀り、周辺集落(武蔵国橘樹郡大綱村字北谷)の人々の信仰を集めていたらしい。1950年(昭和25年)頃までは祭礼行事が行われていたということだが、周辺の宅地化などによって次第に廃れてしまったのだろう。1990年(平成2年)に「綱島市民の森」が整備される際、老朽化が激しかったため、社殿を取り払ったとのことだ。
「大北谷神社跡」から西へ、尾根道を辿ってゆくとやがて丘陵の西端部に至り、眼前に視界が開ける。展望デッキも設けられており、なかなか爽快な景色が望める。方角から考えれば早渕川河畔の平地部、綱島から新吉田にかけての地域が見えているようだ。展望デッキから降りてゆくと「桃の里広場」だ。丘陵地の斜面を利用して設けられた広場で、一角には四阿も置かれている。「大北谷神社跡」を中心とする尾根道の周辺は昔ながらの鬱蒼とした雑木林が広がっているが、「桃の里広場」は一般的な公園のようにさまざまな樹木を植栽して整備されているようだ。明治末から昭和20年代にかけて、この辺りで桃の栽培が盛んだったことから、ハナモモを植えて整備したとのことだ。東側に雑木林の丘を背負って緑濃く、周辺に暮らす人たちの良い憩いの場であることだろう。
「綱島市民の森」は住宅街となったこの地域に貴重な緑地を残し、憩いの場として活用しようという目的のものだろう。一般的な公園とは性格が異なり、子どもたちのための遊具類などは置かれていない。トイレも設置されていない。「綱島市民の森」へ入ってゆくためには尾根の東端部や西端部から尾根伝いに、あるいは北側から「大北谷神社跡」へと向かう小径(おそらくかつての参道と思われる)を辿る方法などがあるが、どれも地元の人でなければわかりにくい。そうした意味も含めて、あくまでこの地域に暮らす人たちのための“市民の森”だが、綱島公園から尾根伝いに散策してみるのは遠方から来訪した立場でも充分に楽しい。