群馬県桐生市は古くから絹織物の盛んなところだったという。奈良時代の終わり頃には朝廷に絹織物を献上していた記録があるらしい。桐生特産の絹織物は「桐生織」と呼ばれ、江戸時代には「西の西陣、東の桐生」とまで謳われたほどの見事なものだった。
開国を経て明治を迎えると、桐生の絹織物は八王子を経て横浜へと運ばれ、外国へ輸出されて日本の外貨獲得に大きく貢献した。絹織物業によってもたらされた富は、明治期以降の桐生の近代化を推し進める。“近代化”は工業技術のみならず、広く生活に密着する分野にまで及んでいたようだ。桐生ではすでに天保年間(1830年〜1843年)にマニュファクチュア(地主や豪商などの資本家が工場を運営、賃金労働者を雇って分業、協業によって製品を生産する形態で、「工場制手工業」と訳される)を導入していたというから、そもそも新しいものへの進取の気風が桐生の人々にはあったのだろう。
桐生の織物産業が全盛期を迎えたのは昭和恐慌から立ち直った1935年(昭和10年)頃だったという。戦後は絹織物そのものの需要が減っていったこともあって、織物産業は斜陽の時代を迎えるわけだが、戦災を免れた桐生の町には明治期から昭和初期、すなわち「近代化」が進められた時代に建てられた建物が今も数多く残っている。桐生市はこうした「近代化遺産」の保存、活用に積極的で、1992年(平成4年)には「近代化遺産拠点都市」の宣言を行っている。
開国を経て明治を迎えると、桐生の絹織物は八王子を経て横浜へと運ばれ、外国へ輸出されて日本の外貨獲得に大きく貢献した。絹織物業によってもたらされた富は、明治期以降の桐生の近代化を推し進める。“近代化”は工業技術のみならず、広く生活に密着する分野にまで及んでいたようだ。桐生ではすでに天保年間(1830年〜1843年)にマニュファクチュア(地主や豪商などの資本家が工場を運営、賃金労働者を雇って分業、協業によって製品を生産する形態で、「工場制手工業」と訳される)を導入していたというから、そもそも新しいものへの進取の気風が桐生の人々にはあったのだろう。
桐生の織物産業が全盛期を迎えたのは昭和恐慌から立ち直った1935年(昭和10年)頃だったという。戦後は絹織物そのものの需要が減っていったこともあって、織物産業は斜陽の時代を迎えるわけだが、戦災を免れた桐生の町には明治期から昭和初期、すなわち「近代化」が進められた時代に建てられた建物が今も数多く残っている。桐生市はこうした「近代化遺産」の保存、活用に積極的で、1992年(平成4年)には「近代化遺産拠点都市」の宣言を行っている。