宮崎県西都市、市街地北西側の台地に数多くの古墳が点在する。「西都原古墳群」の名で呼ばれる、国の特別史跡に指定された遺跡群である。暑さの続く八月半ば、西都原古墳群を訪ねた。
西都原古墳群
西都原古墳群
土を丘のように高く盛って築造された古代の墓を、通常「古墳」と呼ぶ。「古墳」は土地の豪族、権力者の墓であり、その権力を誇示するために造られた。何を持って「古墳」と呼称するかという点については定まっていない部分もあるが、通常「古墳」と呼ばれるものは3世紀中頃から7世紀にかけて日本各地に数多く造られた。この約400年間を、弥生時代に続く時代区分として「古墳時代」と呼ぶ。弥生時代に日本各地に存在した「くに」がヤマト政権のもとに「倭国」として集約され、やがて「日本国」と称されるに至る時代である。

宮崎県内には、この「古墳」が数多く存在する。中でも西都市の市街地北西側の台地には300を超える古墳が点在し、「西都原(さいとばる)古墳群」の名で広く知られている。
西都原古墳群
西都原古墳群
「西都原古墳群」があるのは一ツ瀬川右岸の小高い洪積台地の上、標高50〜80mの平坦な地形が広がるところだ。この辺りでは、こうした河川近くに標高数十メートルで横たわる平地(台地)のことを「原(はる)」と呼ぶ。「西都原」の「原」も、新田原(にゅうたばる)基地の「原」も、すべて同義の「原(はる)」である。

この台地の上に、東西2.6km、南北4.2kmの広範囲に渡って大小の古墳が点在する。古墳の数は300余、前方後円墳が31基、円墳が286基、方墳が2基、その中には陵墓参考地とされる「男狭穂塚(おさほつか)」と「女狭穂塚(めさほつか)」も含まれ、南九州独自という地下式横穴墓も混在する(各古墳の数は2016年8月現在の現地案内リーフレットによる)。これほどの数の古墳がこれほど広範囲に広がるのは全国最大規模であり、1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定されている。西都原の古墳群は1912〜1917年(大正元〜6年)にかけて30基の発掘調査が実施されたが、大部分は発掘が行われないまま、千年を超える時を眠り続けている。
西都原古墳群
西都原古墳群
「西都原古墳群」は1966年(昭和41年)から1969年(昭和44年)にかけて「風土記の丘」として整備が行われた。「風土記の丘」は文化庁が1966年度(昭和41年度)から事業を開始したもので、「古墳、城跡等が集中的に所在する地域の広域的な整備を進め」、「国民が歴史や伝統文化に親しむ場として公開・活用を推進すること」を目的にしており、公園でもあり、野外博物館でもある。「西都原古墳群」はその「風土記の丘」の第一号「西都原風土記の丘」として1966年(昭和41年)に整備が開始されたものだ。
西都原古墳群
西都原古墳群
1967年(昭和42年)には60ha超という面積を有する「特別史跡公園西都原古墳群」として開園、以来、「西都原古墳群」は観光名所でありつつ、県民の憩いの場としても親しまれている。広大な台地に古墳群が点在する風景は他に類を見ないもので、その風景の雄大さを感じつつ、それぞれの古墳を見学してゆくのは楽しいひとときだ。また春の桜や菜の花、夏のひまわり、秋のコスモスなど、花の名所としても知られ、それらの見頃の時季には県内外から多くの来園者を迎える。まさに宮崎を代表する“名所”のひとつである。
西都原ガイダンスセンターこのはな館
「西都原古墳群」は何しろ広大で、一日の訪問でそのすべてを見学するのは不可能と言っていい。初めて訪れた人はまず「西都原ガイダンスセンターこのはな館」に立ち寄り、観光案内所で“これだけは見ておくべき”、あるいは“ここに注目すべき”といった“見所”を教えてもらってから見学するといい。「西都原古墳群」の古墳群は南側の「第1支群」、中央部東側の「第2支群」、北側の「第3支群」、そして西側に位置する「丸山支群」の四つのグループに分けられている。それぞれの見所を教えてもらってから、ガイドマップを参考にして効率良く見学していこう。

「西都原古墳群」の中は距離があって徒歩で巡るのもたいへんだから、「西都原ガイダンスセンターこのはな館」に用意された90分無料のレンタサイクルなどを利用するといい。各支群のそれぞれに駐車場が用意されているから園内での車の移動も悪くない。「西都原ガイダンスセンターこのはな館」には土産物店やレストランもあるから、「西都原古墳群」観光の拠点にすると便利だ。
西都原古墳群
第1支群
南側の「第1支群」は西都原台地の東南端に位置している。7基の前方後円墳、84基の円墳の91基があるという(2016年、現地に設置された解説パネルより)。1912年(大正元年)から1917年(大正6年)にかけて日本で最初の本格的な学術調査が行われたところである。1997年(平成9年)から2014年(平成26年)にかけて宮崎県教育委員会による発掘調査が行われ、13号墳や46号墳、202号墳の復元整備などが実施されている。
西都原古墳群
13号墳は西都原古墳群を代表する前期古墳のひとつで、4世紀後半に築造されたものという。1916年(大正5年)に行われた発掘調査の際に三角縁神獣鏡1面とヒスイ製勾玉2点、碧玉製管玉40点余り、鉄剣1点などが出土している。美しい姿に復元された13号墳は、築造当時、斜面や平坦面が葺石で覆われていたそうで、その姿を模した20分の1の模型が設置されている。
西都原古墳群
西都原古墳群
鬼の窟古墳(206号墳)
西都原古墳群のほぼ中央に位置する「鬼の窟(いわや)古墳(206号墳)」は西都原古墳群の中で最も新しい古墳であり、築造されたのは6世紀後半から7世紀前半にかけてで、最後の首長墓と考えられている。外堤と二重の周溝を有する円墳で、直径は37m、高さ7.3mという規模である。古墳群の中で唯一、開口した横穴式石室を持つ。
西都原古墳群
鬼の窟古墳も復元整備が実施されたもので、石室の中を見学することもできる。通常の見学ではその美しい円墳の全貌を見ることはできないが、リーフレットなどに掲載された上空から撮影された写真を参考に、その姿を想像しているといい。
西都原古墳群
「鬼の窟」の名は、ひとつの伝説に由来する。昔、西都原には鬼が棲んでいた。あるとき、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)を見初めた鬼が嫁にしたいと木花咲耶姫の父である大山津見神(オオヤマツミノカミ)に願い出る。娘を鬼の嫁にやるわけにはいかず、大山津見神は「明朝までに立派な窟(いわや)を建てれば、木花咲耶姫を嫁にやろう」と難題を出す。ところが力自慢の鬼は一夜にして窟を建ててしまった。困った大山津見神は、鬼が安心して眠っている間に窟の岩を一枚抜いて投げ捨てる。夜が明けて、驚く鬼に大山津見神は「岩の抜けた窟では、木花咲耶姫を嫁にやるわけにはいかない」と告げるのである。その窟が、他ならぬ、この「鬼の窟」であり、大山津見神が投げ捨てた岩の落ちたところが、現在の石貫神社である。木花咲耶姫が邇邇芸命(ニニギノミコト)に出会う前の出来事であるという。
西都原古墳群
西都原古墳群
酒元ノ上横穴墓群遺構保存覆屋
鬼の窟古墳の200mほど南側に酒元ノ上横穴墓群遺構保存覆屋がある。遺構を保存し、発掘調査を行うために2000年(平成12年)に覆屋(おおいや)が建設され、内部は見学することができる。内部に保存された古墳は横穴墓と地下式横穴墓が融合した珍しもので、7世紀初めに築造されたものという。
西都原古墳群
西都原古墳群
第2支群と第3支群
西都原古墳群の中央部東側にあるのが第2支群である。3世紀半ばから4世紀にかけて築造された古墳群で、前方後円墳を中心に39基の古墳が確認されている。
西都原古墳群
第3支群は西都原台地の北端に位置し、88基の古墳があるが、前方後円墳は265号墳のみである。第3支群の古墳群は5世紀後半から6世紀後半にかけて築造されたものと考えられている。
西都原古墳群
男狭穂塚と女狭穂塚
「西都原古墳群」の丸山支群には邇邇芸命の陵墓と伝わる「男狭穂塚」や木花咲耶姫の陵墓とされる「女狭穂塚」がある。「男狭穂塚」は墳長176m、高さ19mの国内最大の帆立貝形古墳、「女狭穂塚」は墳長176m、高さ15mの九州最大の畿内式前方後円墳、共に4世紀末から5世紀初頭に築造されたものという。1895年(明治28年)に宮内庁により陵墓参考地に指定され、現在は非公開、立入禁止である。
西都原古墳群
西都原古墳群
宮崎県立西都原考古博物館
「西都原古墳群」の北西側に宮崎県立西都原考古博物館が建っている。西都原古墳群の紹介や出土品などの資料展示を行い、学習のためのさまざまな活動も行っている。照明を抑えた少し薄暗い館内は、まるで古墳内部にいるかのような錯覚を覚えるのも楽しい。西都原古墳群や古墳時代のことに関して、より深い理解が得られる。西都原古墳群を訪ねた際にはぜひ入館して見学していこう。
西都原古墳群
西都原古墳群
西都原古墳群
西都原古墳群
西都原古墳群
「西都原古墳群」の最大の魅力は、60haほどにも及ぶ広大な範囲に300基以上の古墳が点在して織り成す、“古墳のある風景”の美しさである。その風景は古墳が造られた時代からあまり変わっていないのだという。数多くの古墳が築かれた当時の姿形をほぼそのままに保って残され、その周囲に近代現代の建造物が無い風景というのは全国で唯一、西都原だけである。鬼の窟古墳や13号墳といった見応えのある古墳のそれぞれをじっくりと見学していくのはもちろんだが、まずはその“古墳のある風景”の美しさを堪能するのが、「西都原古墳群」観光の王道と言っていい。

古墳が築かれてから実に千年以上の時を経ても、土地の人々は古墳をそのままに残してきた。古墳を破壊して農地に転用したり家を建てたりすることもできたはずだが、それをしなかったのは古代の人々が築いた建造物に畏敬の念を抱いていたからだろうか。古墳の点在する風景を眺めていると、そんなことも思ってしまう。見渡せば周囲には緑濃い風景が広がり、その中に大小の古墳が点在する。その向こうには遠い山々の稜線が横たわっている。素晴らしい風景である。
参考情報
西都原古墳群も宮崎県立西都原考古博物館も入場・入館は無料だ。自由に見学できる。宮崎県立西都原考古博物館の開館日、開館時間等の詳細については公式サイト(頁末「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通
西都市には鉄道が通っておらず、最寄りのJR日豊本線の駅からはかなり距離がある。西都原古墳群を訪ねる際には車を利用するのが賢明だ。

宮崎自動車道西姜Cから「西都原ガイダンスセンターこのはな館」まで7〜8km、宮崎自動車道西姜Cから国道219号を北上して西寰s街へ向かい、案内標識に従って西都原古墳群へ向かえば迷うことはないだろう。

宮崎市街中心部から訪れる際には宮崎西ICから宮崎自動車道を利用してもいいが、国道10号を北上し、新名爪で国道219号へと逸れて西宸ヨ向かってもいい。宮崎自動車道経由と国道10号経由と、所要時間にはそれほど大きな差は無い。

西都原古墳群には「西都原ガイダンスセンターこのはな館」前をはじめ、随所に無料駐車場が設けられている。初めて訪れる人は「西都原ガイダンスセンターこのはな館」前を目指すのをお勧めする。

飲食
「西都原ガイダンスセンターこのはな館」内にレストランがあるが、他には周辺にも飲食店はない。西都市中心部の主要道沿いにうどん屋などが点在しているが、それほど多くはない。

陽気の良い季節ならお弁当やサンドイッチなどを用意して訪れ、場所を見つけてアウトドアランチを楽しむのも楽しい。

周辺
西都原古墳群の一角には宮崎県立西都原考古博物館が建っている。西都原古墳群関連資料を展示した博物館だ。興味のある人は見学していこう。

西都市市街近くに鎮座する都萬神社から御舟塚、逢初川、児湯の池、石貫神社などを辿って「西都原古墳群」まで、「記・紀の道」という散策ルートが設定されている。古事記や日本書紀に描かれた日本神話のエピソードを思い描きながら「記・紀の道」を辿ってみるのも楽しい。

「西都原古墳群」の北方、国道219号が一ツ瀬川を跨ぐ辺りは杉安峡と呼ばれる景勝地で、美しい景観が楽しめる。

一ツ瀬川に沿ってさらに国道219号を北へ辿れば杉安峡から16kmほどで一ツ瀬ダムがある。ダムによって生じた湖が横たわっている。

西寰s街の南方、鹿野田地区には都於郡城跡がある。都於郡城跡は国指定史跡だ。
田園散歩
宮崎散歩