品川宿は日本橋から京の都へ向かう東海道の最初の宿場だった。ということは西から東海道を辿って江戸に入るときには最後の宿場だったわけで、江戸へ入る者はたいてい品川宿で休憩を取り、身支度を調えて江戸入りしたのだという。長旅をしてきた者は履き物が傷んでいるから、品川の宿で新調して江戸入りしたものらしく、品川には履き物を商う店が多かったという。傷み汚れたままの履き物で江戸に入ると“田舎者”と見透かされてしまう。“生き馬の目を抜く”江戸で、それは避けたいというわけだ。まさに“足元を見られる”という慣用句のとおりなのだと、品川で今も昔ながらの履き物の店を営む方がテレビで話しておられるのを聞いたことがある。
品川宿は江戸に近い宿場ということで人々の往来は多く、たいへんに賑やかだったらしい。特に参勤交代の時期(大名が自国に戻る時期は決められていたという)には品川の本陣や旅籠は多忙を極めたという。江戸時代も中期以降になれば世の中も安定し、“お伊勢参り”や“大山詣で”といった寺社参詣を目的とした“物見遊山”の旅が庶民の間にも浸透したが、そうした人々が品川宿で見送りの人たちと酒宴を開いて、それから旅へと出発したものらしい。江戸に近い品川の宿は、“宿場”としての本来の目的より、江戸に入る直前の休憩と身支度を整えるための場所として、あるいは江戸を発つ者が見送りの者と名残を惜しむための場所として機能してきたのだろう。