伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は国造りとともに多くの神々を産んだが、伊弉冉尊は火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)という火の神を産んだときに火傷を負い、そのために亡くなってしまった。妻の死を嘆き悲しんだ伊弉諾尊は後を追って黄泉の国へ出かけてゆくが、戸口で迎えた妻の「中に入らずに待て」という言葉を守れず、中に入ってしまい、妻のおぞましい姿を見てしまう。危うく逃げ帰った伊弉諾尊は黄泉の国の汚れを落とすため、日向の阿波岐原で禊(みそぎ)を行う。この禊によってまた多くの神々が産まれたが、最後に天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の「三貴子」が誕生する。
伊弉諾尊は天照大神には高天原(たかまがはら)を、月読命には夜の国を、素戔嗚尊には海原を治めるように命じ、それぞれ任地に赴くことになるが、素戔嗚尊だけは泣きわめくばかりで任務を果たそうとはしなかった。母の居る黄泉の国に行きたいというのだ。伊弉諾尊はそれを聞いて怒り、素戔嗚尊を追放する。素戔嗚尊は黄泉の国に行く前に姉である天照大神に別れを告げるため高天原に上るが、高天原での素戔嗚尊は粗暴な振る舞いを繰り返した。はじめのうちは許していた天照大神もついには怒り、天の岩戸に隠れてしまう。
世界は暗闇に包まれ、困った神々は一計を案じ、岩戸の前で宴が催される。天宇受売命(あめのうずめのみこと)が身体も露わに踊ると、居並ぶ八百万(やおよろず)の神々がどっと笑ったという。妙に思った天照大神が岩戸を細く開いて「何事か」と問うと、天宇受売命が「あなた様より尊い神が現れ、みなが喜んでいる」と答え、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとだまのみこと)が八尺鏡(やたのかがみ)を差し出した。天照大神は鏡に映った自分の姿を尊い神と思い、さらによく見ようと岩戸から身を乗り出す。そこを天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が天照大神の手を取って外に引き出した。こうして世界に光明が戻る。高千穂で伝わる夜神楽はこの天の岩戸の出来事を表したもので、世を徹して奉納されるという。
八百万の神々の協議によって素戔嗚尊は高天原からも追放されることになった。素戔嗚尊は出雲に下り、そこでヤマタノオロチを退治し、櫛名田比売(くしなだひめ)を救って妻とした。素戔嗚尊は須賀の地に宮を建てて国を固め、多くの子孫をもうけたが、その血を引く子孫に大国主神(おおくにぬしのかみ)がいた。大国主神は八十神(やそがみ)と呼ばれる多くの兄弟神の中の若い神であったが、「稲葉の白兎」として知られる物語のエピソードの後、八上比売(やがみひめ)を妻とし、兄弟神を退けて国の王となる。こうして平定された国を「葦原中国(あしはらのなかつくに)」という。
素戔嗚尊を追放した後、天照大神は下界の様子を気にかけ、葦原中国を息子である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に治めさせようとした。天照大神は大国主神に国譲りを迫るために使者を送るが、これは二度に渡って失敗してしまう。ついに三度目には武力の神である建御雷之男神(たけみかづちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が地上に下った。ついに大国主神は天神(あまつかみ)に従って葦原中国を譲り、自らは壮大な宮を建てて幽界の支配者としてそこに住まうことにした。これが後の出雲大社である。
こうして葦原中国は天神の支配するところとなり、天照大神は天忍穂耳命を降臨させようとするが、その準備の最中に天忍穂耳命に子が産まれた。子は天津日高日子番能邇邇藝命(あまつひだかひこほのににぎのみこと)と名付けられた。天忍穂耳命は自分の代わりにこの子を降臨させることを提案、天照大神もそれを受け入れる。天児屋命、布刀玉命、天宇受売命らの錚々たる神々を引き連れ、さらに八尺鏡、八尺勾玉(やたのまがたま)、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)を携え、国神(くにつかみ)の猿田毘古神(さるたひこのかみ)に先導され、天照大神の孫である邇邇藝命は日向の高千穂の峰に降臨する。天孫降臨である。高千穂の峰は宮崎県北の高千穂であるとも、鹿児島県境の霧島高千穂の峰であるともいうが、邇邇藝命がなぜ出雲ではなく日向に降臨したのかは日本神話に於ける謎なのだという。
地上に降りた邇邇藝命は、ある日美しい娘に出会う。名を問えば、大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘、木花之佐久耶毘売(このはなのさくやひめ)であるという。邇邇藝命は早速大山津見神のもとに赴き、木花之佐久耶毘売を妻に欲しいと申し出る。大山津見神は喜び、木花之佐久耶毘売の姉である石長比売(いわながひめ)ともども娶って欲しいと差し出した。ところがこの姉の姫は器量があまり良くなかったために、邇邇藝命は石長比売をすぐに返してしまった。大山津見神はそれを悲しみ、「石長比売も妻としたならば天孫の命は石のように揺るぎないものになっていたであろうに、石長比売を返して木花之佐久耶毘売のみを妻としたからにはその命は花のようにはかないものとなるであろう」と言ったという。天神の血を引く邇邇藝命の子孫の命が限りあるものであるのはこのためなのだという。日南線の
木花駅の近くの木花神社は木花之佐久耶毘売を祀っており、駅名の由来ともなっている。
木花之佐久耶毘売は邇邇藝命との一度の契りによって子を身ごもった。しかし邇邇藝命はそれを訝しく思い、「一度きりの契りで身ごもるはずがない。他の国神の子ではないのか」と問うた。木花之佐久耶毘売は悲しみ、「この子が天孫の子であれば無事に生まれてくるであろう、そうでなければ無事に生まれてくることはないであろう」と言い、出入り口の無い産屋を造って火を放ち、その中で子を産んでみせた。生まれた子が、火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)である。火遠理命は別名を天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という。
成長した火照命は海幸彦として海で漁を、火遠理命は山幸彦として山で狩りを行うのを生業とした。ある時、山幸彦(火遠理命)は互いの道具を交換しようと申し出た。嫌がる兄を説き伏せ、兄の釣り道具を持って漁に出かけたが、慣れぬ仕事で収穫は無く、挙げ句には釣り針をなくしてしまった。山幸彦は剣を砕いて五百本の釣り針を作って償おうとしたが、兄は「あの釣り針でなくてはだめだ」と言って許そうとはしなかった。途方にくれた山幸彦が浜辺で嘆いていると、塩椎神(しおつちのかみ)が現れ、どうしたのかと問う。事情を話すと、「ここから舟に乗って潮の導くままに綿津見神(わだつみのかみ)の宮にゆきなさい」と塩椎神は助言する。
山幸彦が舟に乗ってゆくと、塩椎神の言うとおり海原の向こうに見事な宮が現れた。綿津見神とその娘である豊玉毘売(とよたまひめ)に出迎えられた山幸彦は豊玉毘売を妻とし、しばらくそこで平穏な日々を過ごす。三年が経った後、山幸彦は失った兄の釣り針を見つけ、さらに潮の満ち引きを操るという塩盈玉(しおみつたま)と塩乾玉(しおひるたま)を綿津見神から授けられて地上へと帰還する。この時山幸彦が上陸したのが
青島の浜辺であるという。
青島神社には山幸彦と豊玉毘売の夫婦の神が祀られている。
地上へ戻った山幸彦は塩盈玉と塩乾玉とを使って兄を服従させる。やがて身ごもっていた豊玉毘売が子を産むために山幸彦の元にやってくる。鵜の羽を用いた立派な産屋が用意されたが間に合わず、豊玉毘売は未完成の産屋で子を産むことになった。豊玉毘売は「子を産む時には本来の姿に戻らなくてはならない。その姿を見られたくないので決して中を覗かぬように」と山幸彦に言ったのだが、山幸彦はそれを破って中を覗いてしまう。産屋の中にはお産に苦しみもがくワニの姿があった。「姿を見られたからには一緒にはいられない」と、豊玉毘売は産み落とした子を残して海原の国へ戻ってしまう。子は産屋が完成せぬうちに産まれたことから鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられた。この産屋が現在の
鵜戸神宮である。豊玉毘売は海原へと帰る時、子のために乳房を置いてきたと言い伝えられ、
鵜戸神宮の洞窟内に「お乳岩」として残っている。
海原に帰った豊玉毘売だったが残してきた子のことが気にかかり、妹の玉依毘売(たまよりひめ)を乳母として地上に送る。やがて成長した鵜葺屋葺不合命は玉依毘売を妻として四人の子をもうけた。このうちの五瀬命(いつせのみこと)と神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)のふたりは「この西の地は天下を統治するにはふさわさしくない」として東へ向かうことにした。大和の地へ攻め入ろうとしたふたりだったが、那賀須泥毘古(ながすねひこ)の攻撃にあって五瀬命が負傷、この傷がもとで後に五瀬命は亡くなってしまう。那賀須泥毘古が仕えた邇藝速日命(にぎはやひのみこと)は邇邇藝命と同様に高天原から天下った神であったという。神倭伊波礼毘古命はひとり船団を率いて南へ回り、熊野に上陸、土地の豪族との戦いを経て、さらに那賀須泥毘古との戦いにも勝利し、ついに大和の地を平定する。この神倭伊波礼毘古命がすなわち神武天皇である。宮崎市内にある宮崎神宮が神武天皇を祀っており、「神武さま」と呼ばれて土地の信仰を集めている。また日南市内の
駒宮神社も神武天皇を祀っており、神倭伊波礼毘古命が妃の吾平津姫と共に住まった少宮跡とも言う。
宮崎県内の神話縁の土地、伝承地などについて、下記サイト「神話のふるさと宮崎」に詳しい。神話を巡る旅の際には参考にされたい。
□神話のふるさと宮崎