堀切峠のやや南方、太平洋を見下ろす山の斜面を辿る道路沿いに
道の駅フェニックスが建っている。展望所からは「鬼の洗濯板」の連なる海岸線を見下ろし、その向こうには太平洋の大海原が広がる。雄大な眺めが観光客に好評で、立ち寄る人も多い。この道の駅フェニックスが開業したのは2005年4月16日のことだ。道の駅フェニックスが開業する以前、ここは「フェニックスドライブイン」という名の施設だった。フェニックスドライブインは観光客向けに食事や土産物販売などを提供する施設で、役割としては現在の道の駅フェニックスとそれほど変わらないものだったと言っていい。
「フェニックスドライブイン」は1965年(昭和40年)に開業した。1970年(昭和45年)には「株式会社フェニックスドライブイン」が設立されている。1960年代後半から1970年代前半にかけてのおよそ10年間、宮崎県は新婚旅行先として人気を集め、空前の“観光ブーム”に沸く。フェニックスドライブインは、まさにその“宮崎観光ブーム”の一翼を担う存在だった。フェニックスドライブイン前の展望所は印象的なフェニックスの樹形の向こうに太平洋の大海原を見下ろし、その風景はまさに“日南海岸”の象徴として人気を集めた。フェニックスドライブインが宮崎交通の資本による経営だったこともあり、宮崎交通の定期観光バスは必ずフェニックスドライブインに休憩に立ち寄り、大勢の観光客で賑わったものだ。
しかしやがて“観光ブーム”も終焉を迎え、“観光宮崎”も斜陽の時代を迎える。観光客は次第に減少してゆき、フェニックスドライブインの経営は悪化してゆく。それでも何とか持ちこたえていたのは親会社に宮崎交通があったからだが、しかし宮崎交通自体の経営も決して芳しくはなかった。そしてついに時代が21世紀を迎えた頃、宮崎交通は経営改善の一環としてフェニックスドライブインの処分を検討、宮崎市への売却を要請する。宮崎市は、そして多くの市民、県民も、長年“観光宮崎”の一翼を担った施設を失うのは忍びないと思ったのだろう。宮崎市は要請を受け入れ、2002年(平成14年)までに買収を完了する。
宮崎市はフェニックスドライブインを「道の駅」としてリニューアルすることを計画、“観光宮崎”の一翼を担ったフェニックスドライブインはついに2004年(平成16年)4月、その40年近い歴史に幕を下ろしたのだ。2004年夏には道の駅フェニックスとして国土交通省への登録も完了し、宮崎市は二億六千八百万円の予算を計上、建物を改修し、周辺にはブーゲンビリアやハイビスカスなどを植栽して散策路を整備、そうして2005年(平成17年)4月16日、道の駅フェニックスが開業した。
道の駅フェニックスは、その中心的施設となる白い円形の建物が印象深いが、これはフェニックスドライブイン時代の建物をそのまま使って改修を施したものだ。この建物の意匠は緑の山肌を背景によく映え、この建物の景観そのものも“日南海岸”の景観のひとつとして認知されていたと言ってもいい。道の駅フェニックスとして生まれ変わったが、かつて“観光宮崎”の一翼を担った施設、建物として、これからも永く保存活用していって欲しいという気がする。
建物から道路を挟んで設けられた展望デッキは「道の駅」としてリニューアルされた際に新設されたものだ。フェニックスドライブイン時代にはちょっとした広場があるだけだった。広場にはフェニックスが植栽され、足下にはハマユウの花が咲き、崖下には「鬼の洗濯板」の連なる海岸線を見下ろした。展望デッキを設けた方が景観の“演出”としては優れていると思えるが、かつての素朴さの方が好きだったと語る人もある。
フェニックスドライブインから
道の駅フェニックスへの改修は、フェニックスドライブインの施設をそのまま活用して再整備を施したものだが、その再整備はまさに“リファイン”という言葉が相応しいかもしれない。決して広いとは言えなかった駐車場も広く整備され、背後の山肌を辿る散策路が整備され、展望デッキが新設され、その脇から海岸へと降りてゆく遊歩道が整備され、細部に渡ってさまざまな“改修”が施されたが、それらは主として経済的理由でなおざりにされてきた施設の“リファイン”が行われたという見方もできるような気がする。民間による商業施設だった「フェニックスドライブイン」は経営主体が替わって「道の駅」となり、新たな役割も担うようになったが、“日南海岸”の象徴的施設としての役割はまったく変わらない。そしておそらくこれからも、緑の山肌を背負った白く円形の建物と、周囲に植栽されたフェニックスの樹形、そこから見下ろす太平洋と「鬼の洗濯板」の海岸線の景観が、“日南海岸”の象徴であり続けるに違いない。