横浜市神奈川区入江〜東神奈川
入江川に沿って
Visited in October 2001
横浜線の大口駅を東口に出ると、入江川という小さな川が流れている。この川に沿って南下し、子安通一丁目で西に向かい、浦島町を経て東神奈川駅に至るルートを、気ままに寄り道をしながら歩いてみた。
このあたりは入江川と横浜線が平行するように走り、並ぶ家々の屋根の向こうに横浜線の車両が見え隠れする。ところどころで入江川に架かる橋を渡る道路がそのまま横浜線のガードをくぐって、あちら側とこちら側を繋ぐ。横浜線の西側は大口通商店街だ。
小道の先の視界が広がると橋で入江川を東へ渡った。そのまま辿ると広い道路へと抜け出た。入江町交差点で国道と交差した道路だ。道路向こうに一之宮神社の鳥居が見える。道路を渡って境内に歩を進めた。
一之宮神社は1561年(永禄4年)に武蔵国の一之宮(現在の埼玉県大宮市)氷川神社の分霊を勧請したという由緒を持つ。明治までは一之宮大明神と称され、かつての子安村と西寺尾の鎮守として人々の崇敬を集めてきた神社だという。素戔嗚尊を中心に事代主命や保食命などの神々を祀っていると、由緒を記した案内板にある。この案内板によれば正式には横浜一之宮神社という名のようだ。
神社の周囲は住宅街で、交通量の多い道路に面して鳥居が立ち、近くをJRと京浜急行の線路が通る立地とあって残念ながらそれほど静謐さを感じさせる環境ではない。それでも鳥居をくぐって参道を辿ると木立に囲まれた境内は神域らしい独特の空気に包まれている。1962年(昭和37年)竣工という社殿はそれほど壮大な印象のものではないが、すでに40年ほどの歴史を経て、時代の変遷を見続けてきた風格を漂わせているように感じる。例祭は八月に執り行われ、なかなか盛大で有名なものであるという。
境内には一之宮幼稚園が併設されている。案内板によれば1951年(昭和26年)に「公共事業幼児教育施設の開設」とあるから、幼稚園の歴史もなかなか長い。幼稚園の子どもたちは神社の境内を園庭として日々の生活を送っているのだろう。訪れた時にはちょうど秋の運動会を控えていたのか、境内で先生に指導されながら練習する子どもたちの姿があった。
神社の周囲は住宅街で、交通量の多い道路に面して鳥居が立ち、近くをJRと京浜急行の線路が通る立地とあって残念ながらそれほど静謐さを感じさせる環境ではない。それでも鳥居をくぐって参道を辿ると木立に囲まれた境内は神域らしい独特の空気に包まれている。1962年(昭和37年)竣工という社殿はそれほど壮大な印象のものではないが、すでに40年ほどの歴史を経て、時代の変遷を見続けてきた風格を漂わせているように感じる。例祭は八月に執り行われ、なかなか盛大で有名なものであるという。
境内には一之宮幼稚園が併設されている。案内板によれば1951年(昭和26年)に「公共事業幼児教育施設の開設」とあるから、幼稚園の歴史もなかなか長い。幼稚園の子どもたちは神社の境内を園庭として日々の生活を送っているのだろう。訪れた時にはちょうど秋の運動会を控えていたのか、境内で先生に指導されながら練習する子どもたちの姿があった。
かつて子安は小さな漁村で、その砂浜は海水浴場としても知られていたのだという。現在の京浜急行新子安駅は当時海水浴客誘致のために設けられた駅であったとも聞く。その子安の海岸を明治の終わりに守屋此助が埋め立てた。守屋此助は政治や法律にも通じた実業家だったらしい。子安の漁民にとって埋め立ては死活問題で、当然のように反対運動が起こったらしいが、紆余曲折の末に埋め立て申請は許可され、その土地には後に「守屋町」の名が付けられた。
浜通りを歩いてやがて常磐橋、ここから北へ国道沿いへと抜け出れば京浜急行子安駅が近い。さらに進むと町名は子安通一丁目から浦島町へと変わる。その名の通り、浦島太郎伝説の残る土地だという。浦島町の先の埋め立て地はすでに守屋町ではなく新浦島町となる。浦島町と新浦島町とを新浦島橋という小さな橋が繋ぐ。時刻はちょうどお昼時、橋を渡ってやってくるスーツ姿の人々が目立つ。新浦島町地区に勤める人たちが国道沿いのお店で昼食をとるために橋を渡ってくるのだろう。
大口駅から入江川に沿っての散策はなかなか楽しく、中でもやはり子安通地区の景観が印象に残る。子安の海岸に焦点を絞るならJRの東神奈川駅や京浜急行の仲木戸駅、神奈川新町駅、子安駅などが近い。船の並ぶ景観の中にかつての子安浜の面影を探しながら、じっくりと散策を楽しむのもよいものだろう。