横浜市神奈川区大口通〜港北区菊名
大口から菊名へ
Visited in November 2007
秋も深まった十一月の末、横浜線大口駅に降りた。大口駅から北西の方角へルートを取り、東急東横線妙蓮寺駅付近を通って菊名駅へと向かおう。
道路を渡って駅の西側へと向かおう。斜面となった立地に小さな公園があり、その横を小径が丘へと登っている。丘の上も住宅街だ。建ち並ぶ家々の間を抜けていくと、南北に延びる道に出た。地図で確認すると大口通と大口仲町との町の境に沿った道路のようで、尾根筋を辿って延びている。
進んでゆくと道の東側に横浜市立盲特別支援学校が建っている。学校のフェンス脇に「大口台遺跡」について解説した案内板があった。盲学校の建つ台地から竪穴住居や土器、石器などが多数発掘されたという。縄文時代中期から古墳時代前期にかけての「ムラ」の様子がよくわかる遺跡であるらしい。
綱島街道を渡って港北区へと入ろう。港北区側でもこの辺りが町の境になっており、南側は仲手原一丁目、北側はすでに菊名二丁目だ。
緑道を北へ辿って行くと、緑道の中に送電線の鉄塔が建っている。送電線の鉄塔というものは、たいていはその敷地の周囲がフェンスで囲まれて立入禁止になっているものだが、ここの鉄塔はそうではない。立入禁止になっていないどころか、鉄塔の足元をくぐってゆくことができるのだ。送電線の鉄塔を真下から見上げるというのは初めてのことで、なかなか新鮮で楽しい経験だった。
妙蓮寺は神奈川区神明町にあった妙仙寺が前身で、1908年(明治41年)に横濱鉄道(現在のJR横浜線)の敷設の際に移転を余儀なくされ、現在地にあった蓮光寺と合併、妙仙寺の「妙」と蓮光寺の「蓮」から寺号を妙蓮寺としたものという。名は同じだが京都の妙蓮寺とは特に関連がないらしい。
その妙蓮寺は今度は1926年(大正15年)になって東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄東横線)が敷地内を通ることになった。寺は敷地を提供し、電鉄側は「妙蓮寺駅」を設けたという経緯であるらしい。
この辺りは住所の上では「菊名一丁目」で、「妙蓮寺」の名は寺の名と駅の名に存在するだけなのだが、駅周辺の町を通称して「妙蓮寺」と呼ぶことも少なくない。この町も東急東横線と妙蓮寺駅の存在によって発展した町なのだろう。
訪れたのは11月も末、園内のイチョウが黄葉に染まり始めていたが、考えてみれば色付きが遅いような気もする。池の周囲の遊歩道には散策を楽しむ人の姿がある。ベンチでくつろぐ人も多い。その中をのんびりと歩いて通り抜けてゆこう。
地図を片手に勘を働かせながら菊名駅を目指す。錦が丘の町で、住宅地の直中に設けられたロータリーに遭遇した。ロータリーからは数本の道路が放射状に延びている。希にこのような住宅街の中に設けられたロータリーを目にすることがある。街が造られるときに設計されたものと思うが、なぜロータリーが造られたのか、興味を覚える。
ロータリーから北西に延びる道を辿れば菊名駅に近いようだ。丘をひとつ越えるように道を辿ると菊名駅の南側へ出た。菊名駅へ向かい、そろそろ帰路を辿ることにしたい。
大口駅から菊名駅まで、途中は妙蓮寺駅を経由するだけで、なるべく最短になるようにルートを選んだ。歩いたルートの周囲はどこも住宅街だが、古い時代にはのどかな丘陵地だったのだろう。錦が丘の住宅街には見事なサクラの木も少なくなかった。サクラの花期にのんびりと歩いてみたい気がする。