町田市小野路町
小野路の丘と万松寺谷戸
Visited in May 2002
昔ながらの里山と谷戸の風景を今も残す町田市小野路町は季節を問わず散策の楽しいところだ。木々の若葉も色濃くなって初夏の風が爽やかな五月の半ば、小野路町西部の谷戸から丘の上に広がる畑地を巡って歩いてみた。少々雲の多い日だったが、雲の切れ間から覗く太陽はすっかり初夏の日差しで、汗ばみながらも丘を渡る風が爽快な散策だった。
小野篁は802年(延暦21年)に生まれ、852年(仁寿2年)に没したとされる。詩才に恵まれた人物であったらしく、古今和歌集に残る篁の歌にはファンも多い。小野篁は承和元年(834)に遣唐副使に任ぜられた時、大使藤原常嗣と対立から乗船を忌避、嵯峨上皇の怒りを受け隠岐に配流となった。隠岐では長者の娘であった阿古那との悲恋も伝えられる。また小野篁は閻魔庁に仕えていたという冥界往還の伝説も有名で、少々謎めいたところが今もなお人々の心を惹きつけるのかもしれない。
谷戸は万松寺谷戸というらしい。この一帯は古くは万松寺の地所であったという。この谷戸はすでに「図師小野路歴史環境保全地域」の中に位置し、その旨の案内板も立てられている。谷戸というと通常は雑木林の尾根に挟まれて細長く延びているという地形を思い描くが、この谷戸は少し違っている。尾根の間に細く延びるというより、円形の湿地が雑木林の丘に囲まれて横たわっている印象なのだ。もちろん実際の地形は円形ではないのだが、湿地の直中に立って周囲を見渡してみるとそのような印象がある。
谷戸の奧に栗の林があった。もちろん営農目的の栗林だが、小径の脇に「栗を盗らないで」との旨の注意書きが、以前は立てられていたと思えるのだが、今は打ち捨てられたように落ちている。半ば消えかけた注意書きには「栗ヲトルナ、神様が見てる」とある。地元の人たちが守り続ける里山の林や畑で、その作物を盗む者も多いと聞く。朽ちかけた注意書きの有様は情けなく悲しい。
しばらく行くと子どもたちの声が木々の向こうから聞こえてきた。林の中の小さな十字路で子どもたちとすれ違った。小野路町の保育園の子どもたちのお散歩であるようだった。子どもたちの散歩コースとしては少しばかり距離があるような気もするが、なかなか素敵なお散歩であることだろう。
やがて木立の向こうに視界が開け、丘の上に広がる畑地へと抜け出た。旧街道西側の丘の上に広がる畑地だ。道の傍らに「ふるさとめぐり」と題して小野路町の畑地などを記したイラストマップが設置されている。
畑地の横に牧場があった。道脇から牧場の牛の姿が間近に見える。こちらの姿を見つけた牛たちが柵近くまで歩み寄ってくる。人懐っこいのか、好奇心旺盛なのか、餌をもらえるとでも思うのか、二、三頭の牛が近寄ってくる。牛というのはとても優しい目をしていて、見ているこちらも心が和む。牛についてはいろいろと世間も騒がしい昨今、牧場の迷惑になってはいけないので、手を伸ばして撫でてみるのはもちろん、牛たちにあまり近寄るのも憚られる。実際、牧場の正面入口には「防疫のため立ち入りをご遠慮下さい」との旨が記されていた。
牧場の下に広がる畑地が美しい。丘の斜面に緩やかな起伏を伴って広がる畑の風景は古き佳き時代の多摩丘陵の姿を今に伝えるものだろう。整然と耕作された畑と、その向こうに広がる雑木林の尾根の景色も美しく、その尾根を渡って五月の風が吹き渡ってくる。畑の一角には農作業の人の姿がある。畑には茄子や豌豆などが育ちつつある。こうした風景に懐かしさを覚え、わけもなく郷愁を感じるのは、自分が子供時代をこうした風景の中で過ごしたからだろうか。
牧場の方から下へ降りる道を辿れば万松寺谷戸へと抜けるはずだが、今回は牧場の向こう側の道を辿って丘の下へと降りた。坂道を下るとやがてバス通りへと出る。ちょうど「小野路」バス停付近だ。バス通りをのんびりと歩いていると、さきほど林の中の小径で出会った子どもたちが北から降りてくるところだった。
今回は小野神社横から万松寺谷戸へと進み、そこから谷戸の北側の丘の畑地へと辿ってみた。万松寺谷戸から南へ尾根を越えて図師町の谷戸へと降りるのもよいものだし、小野路の旧街道から東へと歩を進めるのもいい。自然豊かな里山と谷戸の風景は四季折々に表情を変えて飽きない。