横浜市中区石川町〜山元町〜根岸台
地蔵坂から根岸台
Visited in October 2007
横浜市中区の中央部、南区との境に近い西の端に、山元町という町がある。「横浜駅根岸道路」に沿って延びる細長い町だが、道路沿いに商店が建ち並び、「山元町商店街」を成している。アーケードを設けた商店街で、その佇まいには古き佳き時代の面影が残っている。この「山元町商店街」を歩いてみたいと思い、よく晴れた十月初旬、横浜へ出かけた。
JR根岸線石川町駅を降り、まず中村川の川べりを西へ進もう。すぐに「亀の橋」の袂に出る。この橋の南西側の袂にお地蔵様が立っておられる。「濡れ地蔵」というらしい。ここから南側の丘へ登る坂道には「地蔵坂」という名がある。そもそも坂の途中に地蔵尊があったためにその名となったもののようだが、その地蔵尊は関東大震災で倒壊してしまった。現在の「濡れ地蔵」は後に修復、再興され、2001年(平成13年)に現在地に移されたものだ。交通安全や子育て地蔵としての御利益があり、地元の人々の信仰を集めているという。
「濡れ地蔵」に今日の無事を祈願し、地蔵坂を上ろう。坂の中ほどまで上がると、案内標識があり、右手(西側)へ入り込む細い路地を指し示して「山手214番館」と記されている。その傍らにはやはり同じ路地を示して「横浜女学院」、「横浜共立学園」などの名を記した案内板もある。その案内板の下部には「乙女坂(旧西坂)」とある。「ああ、ここが乙女坂か」と、ふと思った。「乙女坂」という名は以前から知っていたのだが、どこにあって、どのようなところなのか知らずにいて、もちろん訪れたことはなかった。「旧西坂」と書かれてあるのを見ると、かつての呼び名は「西坂」だったのだろう。この坂道は丘の上に位置する横浜女学院や横浜共立学園の中高生たちの通学路に当たり、彼女たちが毎朝夕、この坂道を通って石川町駅と学校とを往復する。そこから「乙女坂」と呼ばれるようになったという。今は登下校の時間帯ではなく、乙女坂に人の姿はない。
石段となった乙女坂を上りきると、右手(北側)は横浜女学院だ。左手(南側)には道のすぐ横に「山手214番館」が建っている。昭和初期に建てられたもので、木造二階建て、鉄筋コンクリートの地下室を備え、現在は横浜市指定文化財となっている建物だ。かつての居住者だったメンデルソンがスウェーデン系会社の日本代表を務める傍ら、スウェーデン名誉領事も兼ねていたことからスウェーデン領事公邸と呼ばれていたという。現在は横浜共立学園の同窓会館として利用されている。設計者は不詳ということだが、建築に素養の無い身で見てもなかなか凝った造りをしている。残念ながら入場見学はできないようで、門外から外観を見学することができるだけだ。
山手214番館の西南側には横浜共立学園が建っている。山手214番館から南へ延びる道を進んで横浜共立学園の周囲を辿って行こう。横浜共立学園は1871年(明治4年)、アメリカから派遣された女性宣教師、プライン、クロスビー、ピアソンの三人によって山手48番地に設立された亜米利加婦人教授所がその起源だ。日本最古のプロテスタント系ミッション・スクールのひとつであるという。翌1872年(明治5年)、山手212番地、すなわち現在地に移り、校舎が建てられた。その最初の校舎はすでに無いが、関東大震災後の1931年(昭和6年)に建てられた校舎が今も残り、横浜市指定文化財となっている。この横浜共立学園本校舎はW.M.ヴォーリズの設計によるもので、学校建築の傑作と言われる美しい建物だが、残念ながらこれも門外からの見学だ。
横浜共立学園の門前を過ぎてさらに西へ進むと、北へ、丘を降りてゆく坂道がある。「牛坂」という名の坂道だ。面白い名だが、この辺りで牛が飼われていたからだとか、牛のようにゆっくりとした歩みでなくては上り下りができないような急坂だったからだとか、名の由来には諸説あるようではっきりしない。この「牛坂」を降りてゆく。途中、道脇に「弐百六番」と記された石柱があった。もちろん「山手206番地」を示しているものだが、門柱だろうか。「弐百六番」は右から左へ「番六百弐」のように書かれてあるから、少なくとも戦前のものだろう。このような小さな発見が楽しい。
「牛坂」を下りきると片側二車線の広い道路に出る。「横浜駅根岸道路」だ。道路はほぼ南北に真っ直ぐの緩やかな坂道で、両脇に崖面が迫る「切り通し」となって丘上の山元町へと繋いでいる。昔は「根岸新道」とも呼ばれていた。坂道の中ほどは打越の町に当たっているからか、「打越坂」という呼び方もあるようだ。かつてはここを横浜市電の長者町線が走っていた。山が削られて「切り通し」の坂道となったのは市電を通すためで、坂の中ほどに「猿坂」、後に「打越」と改称された電停があったという。
この道を南へ、坂を上ってゆくと、道の西側の崖下に「打越の霊泉」がある(だから、「牛坂」から下りてきた後、横断歩道で道の西側に渡っておかなくてはいけない)。「打越の湧水」と呼ばれることも多いが、「打越の霊泉」というのが正しい名であるようだ。横浜開港時には港に出入りする船舶の給水に用いられた湧水という。関東大震災や1945年(昭和20年)5月の空襲の際、この湧水で多くの市民が助かったとの説明がある。残念ながら現在は水質が不安定であるために飲料に用いることはできないとのことだが、この水を汲みに来る人は少なくないようだ。このときにも持参した容器に水を汲む人の姿があった。
「打越の霊泉」を後にして「打越坂」を上がろう。道の前方、切り通しとなった坂道の両脇の崖上を繋いで赤い橋が架かっている。「打越橋」という。市電長者町線の開通した1928年(昭和3年)に架けられたもので、切り通しの「打越坂」が造られた際に分断されてしまった丘上の道路を繋ぐ目的で架橋されたものという。現在は横浜市の「歴史的建造物」に認定されている。「上路式2ヒンジ鋼ランガー橋」という構造らしい。道路を一跨ぎにするアーチ上の構造物がなかなか美しい姿だ。橋の上を通る道路は横浜共立学園の南側の道路の延長に当たっており、さきほど横浜共立学園を過ぎて「牛坂」へと下りたところを、そのまままっすぐに進めば打越橋の上へと出る。道路はバス路線も通っており、橋下から見上げているとときおり橋の上をバスが通り過ぎてゆく。
打越橋の下をくぐってさらに打越坂を上れば、丘の上に出て丁字路の交差点に出る。交差点には「山元町」の名がある。この交差点の付近に、かつての横浜市電長者町線の「山元町」電停があった。交差点の信号機には市電が使っていた電柱が使われているという。交差点を右(北東側)に折れれば
山手本通りで、300メートルほど辿れば「地蔵坂上」交差点に至っている。交差点を左(西南側)に折れれば山元町商店街だ。
「山元町」交差点から西南側へ、「横浜駅根岸道路」は緩やかに曲がりながら下っている。両脇の歩道には商店が建ち並び、「山元町商店街」を成している。アーケードを設けた歩道にさまざまな商店が軒を並べる商店街の佇まいは、古き佳き昭和の匂いとでも言えばいいだろうか、どこか懐かしい感じがする。
商店街にはさまざまな種類のお店が軒を並べている。「生活」というものに関わるありとあらゆる店が在ると言っていい。精肉店、青果店、鮮魚店、酒屋、パン屋、総菜店、豆腐店、衣料品店、生花店、履物店、自転車屋、工務店、電気工事店、畳屋、理容店、歯科医、接骨院、薬店と、それこそ無いものはないと言っていいほどだ。もちろん蕎麦屋や洋食屋、中華料理店などといった飲食店も軒を並べる。散策の途中での一休みや食事に、それらの店のどれかを選んでみるのも悪くない。
どの店も小さな個人商店のようだ。店構えや看板の様子から、どの商店もずいぶんと長く商売を続けてこられているであろうことは察しがつく。こうした商店街は今では少なくなってしまった。昔はどの町にもこうした商店街があって、買い物客で賑わっていたものだ。商店街を歩いていると、ふと子ども時代のことが思い出されてしまう。そんな郷愁を誘う雰囲気が山元町商店街にはある。
商店街の佇まいを楽しみながらのんびりと歩いてゆくと、やがて坂を下りきって「大芝台入口」交差点に至る。ここから西に入り込むと寺の建ち並ぶ一角があり、1892年(明治25年)に造られた地蔵王廟なども見てみたいところだが、そちらを訪ねるのはまた次の機会にしよう。
「横浜駅根岸道路」をさらに辿ろう。道は緩やかに曲がり、南南西の方角へ向かっていたものが南南東の方角へ向かうようになる。「
簑沢入口」を経て、道は今度は緩やかな登り坂だ。道沿いは「商店街」から住宅地の佇まいへと変わり、アーケードも無くなりユリノキの並木が道路に潤いを与えている。町は「山元町二丁目」から「山元町三丁目」に変わっている。「山元町」の町はほぼ「横浜駅根岸道路」に沿って細長く延びており、北から一丁目、二丁目、三丁目、四丁目、五丁目と並んでいる。もう少し歩くと「山元町四丁目」、そして「山元町五丁目」だ。
「山元町五丁目」交差点を過ぎると、「丘」の上に出たという感じがする。右手(西側)には緑濃く根岸森林公園が横たわっている。
根岸森林公園は日本初の洋式競馬場である「横濱競馬場」の跡地を公園として整備したものだ。広大な公園は緑に溢れ、横浜を代表する公園のひとつとして市民に親しまれている。根岸森林公園に立ち寄り、一休みしてゆこう。芝生の広場がなだらかな起伏で続く公園はのんびりと穏やかな空気で満たされているようだ。広場のあちこちにシートを広げてくつろぐ家族連れやグループの姿がある。
公園で一休みした後は、そろそろJR根岸線根岸駅へ向かうことにしよう。公園から南へ下りると白滝不動尊があるのだが、これも訪れるのはまた次の機会にしよう。公園の外縁部を辿って西へ向かうと道脇に米軍の第五消防署が建っている。白地に赤く「FIRE STATION No.5」と書かれているのが初秋の青空の下によく映える。その上には「LEARN NOT TO BURN」と書かれてあり、その隣には日本語で「確認しよう火の始末」とある。この米軍第五消防署も(不謹慎かもしれないが)根岸の象徴的な景観のひとつに数えてもいいのではないかという気がする。
米軍第五消防署前から南へ、台地の下へと降りてゆく坂道が逸れている。その坂道脇、交差点近くに「ドルフィン」というレストランが建っている。1970年代初期の日本のポップ・ミュージックを聴いていた人なら、その名を聞いてピンとくるかもしれない。1974年に松任谷由実(当時は「荒井由実」)が発表したアルバム「MISSLIM」の収録曲「海を見ていた午後」の歌詞中に登場する、あの「ドルフィン」である。歌詞中では「山手の」と歌われていたために、当時「ドルフィン」を探して山手町界隈を尋ね歩くファンが少なくなかったという。今から二十年以上も前のことになるだろうか、「ドルフィン」で食事をしたことがある。店の佇まいはあの頃からあまり変わってはいないように見える。広く取られた窓からの景色が素晴らしかったことを覚えているが、あれからずいぶん時が経ち、窓外の風景もかなり変わってしまったようだ。
「ドルフィン」を通り過ぎ、坂を下りてゆこう。坂道はUターンするように大きく曲がり、東へ向かって降りてゆく。坂は「不動坂」の名があるようだ。坂道をそのまま降りてゆけば白滝不動尊の辺りに出るからだろう。坂の途中、南側の崖を降りてゆく細道を見つけた。こちらの方が根岸駅に向かうには近そうだ。細道は葛折りの石段になって崖面を降りてゆく。途中、崖面から水が染み出したところがあった。「湧き水」として祀られているのだろうか、お供え物らしいものが置かれていた。細い石段を下りきると市街地だ。少し歩くと広い道路に出た。そこから西へ辿れば根岸駅が近い。根岸駅の前のドーナツショップで一休みして、帰路を辿ることにしよう。
石川町駅を降りて根岸駅まで、「打越の霊泉」からはほぼ「横浜駅根岸道路」に沿って歩いた。石川町駅近辺と山元町、根岸台の辺りとそれぞれに街の佇まいに特徴があったのが面白い。主な目的が山元町商店街散策だったのだが、それにも関わらず先を急いでただ通り抜けただけになってしまったのが少し悔やまれる。商店街に店を構える飲食店のどれかを選んでランチタイムを過ごせばよかったと、後になって思ったのだった。