山手資料館の建物は横浜山手に遺された洋館群の中でも少しばかり異なった佇まいの洋館だ。小さな建物で、その意匠もどことなく可愛らしい印象を与える。この洋館はそもそもは北方村(現在の諏訪町)で牧場を営んでいた中澤氏の居宅として明治末期に本牧に建てられた屋敷の洋館部分だったという。屋敷は戸部村の大工によって建てられ、この洋館もその日本人大工の手によるものというから少し驚く。現在は独立した洋館として建っているが、建てられた当時は和館に附属した施設として和館部分から出入りしていたようだ。幸いにも関東大震災を免れ、戦後は一時期米軍に接収されていたが、すぐに返還され、しかし昭和50年代に入ってマンションの建設のために取り壊されることになった。その時に当時の横浜十番館のオーナーだった故本多正道氏が洋館部分を買い取り、1977年(昭和52年)、現在地に移築したのだという。現在の山手資料館は横浜十番館による店舗のひとつである「山手十番館」に隣接して建っているように見えるが、実は山手十番館の敷地内に建っているのだ。
現在の山手資料館はその名が示すように横浜開港期を偲ばせるさまざまな資料を展示公開している。小さな建物だから一階部分に一部屋、二階部分に一部屋があるだけで、その部屋も決して広くはないが、その一階部分には浮世絵やガラス製品、西洋瓦、オルガンなどが陳列され、二階部分には外国人墓地の模型や横浜家具などが展示されている。また二階には鉄道技師長を務めたモレルや日本最初のビール工場を建設したコープランド、ボーイスカウトの創設に携わったグリフィン、あるいは生麦事件の犠牲者であるリチャードソンなど、外国人墓地に眠る外国人たちのパネルも展示されており、興味を引かれるところだ。屋外部分にも復元されたガス灯やグリーンベンチ、古い乳母車などの展示物があり、これらもぜひ見ておきたい。
山手資料館の前庭はバラ園として設えられている。今回訪れたのは五月の下旬、バラは鮮やかに咲き誇っている。入口横には「このバラ園は、開門時はどなたでも自由にご覧いただけます」との案内が立てられている。美しいバラに誘われて立ち寄る観光客も少なくないようだ。可愛らしい洋館を背景に見るバラはなかなか“絵になる”風景で、カメラのレンズを向ける人の姿も少なくない。
横浜の街は関東大震災で壊滅的な被害を受け、それ以前に建てられた建物はほとんど残っていない。この山手資料館の建物は明治期に建てられた洋館としては横浜で唯一のものだという。数々の資料を展示公開している山手資料館だが、その中でも最も意義深いものはこの建物自体であるだろう。訪れたときはぜひその建物の外観や内部の細工などにも目を凝らして見学しておきたい。明治末期に洋館を建てた日本人大工の意気込みのようなものが感じられるような気もする。
山手資料館に展示されている数々の物品は故本多正道氏が趣味で蒐集していたものが基になっているのだという。横浜をこよなく愛した本多氏の思いが、それらの品々から伝わってくるようでもある。入館には所定の入館料が必要だが、ぜひ入館して見学してゆきたい。見学した後は山手十番館でゆっくりと食事を楽しむのもお薦めだ。