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横浜市中区
元町
Visited in May 1999
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
元町
横浜元町と言えば、服飾関係のお店が多くお洒落な街という一般的イメージがあるように思う。中華街と山手の間に位置し、横浜の観光スポットのひとつに数えられてもいる。その横浜元町を歩いてみた。
「ハマトラ」という言葉をご存じだろうか。1970年代の末から1980年代の初頭にかけて流行した若い女性のファッションスタイルの名称で、「ヨコハマのトラディショナル」を意味している。「ハマトラ」は清楚で溌剌としたお嬢様的雰囲気のスタイルで、当時の若い女性たちの圧倒的な支持を得て全国的規模の大流行となった。

元町 その「ハマトラ」流行の発信地が、他ならぬこの横浜の元町だった。そうした流行は常に東京からもたらされるという一般的なイメージを覆し、横浜の小さな商店街からそれが始まったということも当時ひとつの驚きであったように思う。「ハマトラ」はおそらく山手のフェリス女学院などに通う女子学生たちが「お膝元」である元町で買い揃えたアイテムでオリジナルなスタイルを創り出したことに始まるのだろう。そのスタイルを1970年代の末にファッション雑誌が紹介し、その記事が火付け役となって全国的な大流行となってしまった。

「ハマトラ」にはいくつかの決まった定番アイテムがあった。特にフクゾーのトレーナー、ミハマのローヒール、キタムラのバッグは当時「三種の神器」とも呼ばれ、「ハマトラ」でキメたい女性たちにとってなくてはならない必須アイテムだった。フクゾーもミハマもキタムラもすべて元町に本店を置く老舗であり、それまでそうした流行とは無縁の店であったと言っていい。突然の全国的な大流行の嵐にそうした老舗たちは多少の困惑もあったかもしれない。日本全国から客が詰めかけ、急な量産などできるわけもなく、売るものがなくなったことさえあったという。

やがて「ハマトラ」の大ブームは過ぎ去ったが、その舞台となった元町までもが時代の中に置き去りにされることがなかったのは、「ハマトラ」に使われたアイテムの数々がいずれも職人気質の老舗によって造られる良質の品々ばかりであったことによるものだろう。そもそも元町は「ハマトラ」によって全国的規模の知名度を得る以前からそうした街であったし、それぞれに味のあるオリジナルな商品を提供する専門店の並ぶ商店街として独特のステータスを持っていた。そのイメージを「ハマトラ」の大ブームが決定づけたと言っていいのかもしれない。

あの「ハマトラ」ブームからすでに二十年ほどが過ぎたが、あの当時流行の渦中にあった女性たちはあの頃をどんなふうに思い出されるのだろうか。「私はあのブームの最中に山手の学校に通う女学生だった」というような方がおられたらお話を伺ってみたい気もする。
元町
横浜元町の歴史は横浜開港の時期にまで遡る。1859年(安政6年)に横浜が開港されると、それにともなって横浜村が日本人による商業地区と外国人の居留区に整備されることになり、翌1860年(万延元年)、90戸の横浜村の住民は隣接する山裾に強制移住させられた。そこを元村と言い、それが元町に改称され、元町の歴史が始まる。

元町
かつては漁業を営んでいた横浜村の住民たちだったが、やがて堀川が掘られて元町と関内とが隔てられるとそれを続けることもままならなくなった。やがて明治期になって山手に外国人が居住するようになると、関内の商業地域と山手の住宅街との通り道に元町が当たることもあって、自然発生的に外国人相手の商売が生まれることになった。元町商店街の始まりである。

元町は山手の外国人居住区を抱えて、彼らの生活を支えるための物資やサービスの供給という側面を持っていた。多くの技術を外国人たちから学びつつ、ベーカリーやクリーニング、洋服の仕立てなどといった西洋文化のサービスが元町から始まっていったのだった。当時から元町は職人の町としての性格も強く、西洋家具などはその代表的なものと言える。

元町
山手の外国人たちを顧客に抱えて発展した元町商店街だったが、しかし衰退の時期もあった。大正期になって外国の商社の多くが東京に移転するにつれ、元町も次第に活気を失っていき、関東大震災では壊滅的打撃を受けた。その復興から細々と続いた元町をさらに第二次大戦の空襲が襲う。終戦後、進駐軍の横浜上陸によってその需要をまかなうために開港期を彷彿とさせる復興を迎えるが、それも長くは続かず米軍接収解除によって元町商店街は存亡の危機に立たされることになった。

元町商店街は大きく路線転換を計ることによって、その危機を乗り切ろうとした。日本人、特に若者をターゲットにした街造りの模索だった。昭和30年代から昭和40年代、県や市、地元銀行などの協力による街造り、オリジナル商品の開発、一流デパートとの提携などの努力によって次第に知名度を高めて行く。「元町ブランド」の誕生と言ってよいだろう。そして昭和50年代の半ば、「ハマトラ」の大ブームに沸くのである。
元町
横浜元町という街は、「ハマトラ」のブームによって知名度が飛躍的に高まる以前から、「ファッション通」の人たちにとっては特別な街であったような気がする。特に地方から首都圏にやってきた若い女性たちにとって、元町は一種憧れの街であったかもしれない。そのお洒落なイメージ、ちょっと高級なイメージは、「一見(いちげん)さんお断り」的な雰囲気も少々あって、元町を「使いこなす」ことはひとつのステータスであったようにも思える。そしておそらくそうした元町のイメージは現在もあまり変わってはいない。

ここが「横浜であって東京ではない」ということもまたひとつ大きな意味があるのかもしれない。「東京発」のファッショントレンドに安易に与することなく、その歴史の中で培われてきたであろう独自のセンスというものに、人々は惹かれ、憧れを抱くのではないか。そしてまた、「横浜」についての一般的イメージ、多くの人々が思い浮かべるであろう山下公園や外国人墓地、港の見える丘公園、山手に残る洋館といった異国情緒溢れる風景の数々が、元町のブランドイメージに重なって見えるのもまた事実だろう。
元町
元町商店街はほんの数百メートルの短かさで、ゆっくりと歩いてもすぐに通り抜けてしまう。しかし通り沿いに並ぶ商店はどれもみなお洒落だし、歴史を持つ老舗はどことなく重厚な佇まいさえ感じさせる。お店のショーウインドウの飾り付けや看板なども楽しく、交差する路地などの風情もいい。顧客の大部分が女性というだけあって、並ぶ商店は女性向けの服飾関係のものが多いが、それらにあまり関心の無い男性の身で歩いてみても何故か楽しいのは、そうした街全体の持つ雰囲気のせいだろうか。

元町
休日の元町は車輌の通行が禁止されて歩行者天国となり、多くの人々で賑わうが、実は平日の元町こそ、その真実の姿を見せて魅力的と言えるだろう。買い物客や観光客で賑わう休日の元町もいいものだが、機会があればぜひ平日の元町を歩いてみて欲しい。できれば夕方がよいかもしれない。歩行者天国の人込みの中からはなかなか見えない普段着の元町、元町の本当の姿がそこに見える。

狭く通りにくい車道を商品搬入のトラックや地元の人の車が通り抜けて行く。パーキングメーターに停めて買い物をするのも地元の人たちだろう。停まっている「横浜」ナンバーの車の中には、お洒落な外国車の姿も少なくない。通りを行き交う人々の姿もいい。お洒落な街を日常的な生活の場とする人々が必然的に身につける風情のさりげなさがいい。元町が若者の街であると同時に、大人の街でもあることがよくわかる。

中心となる「元町通り」だけでなく、それと平行する堀川沿いの「河岸通り」や山手側の「仲通り」なども歩いてみると、また違った元町の姿を見ることができるだろう。お洒落な構えの店に混じって少々古びた佇まいの建物が並ぶのもまた楽しく、街角にぽっかりと空いた穴のように駐車場があったりするのもおもしろい。ひょっこりと神社があったりするのもいい。神社は厳島神社といい、お祭りの時には大いに賑わうのだそうだ。

元町
元町はファッションの街、というイメージが強いせいか、飲食関係で言及されることはそれほど多くなかったような気がするが、実は素敵なレストランも多い。特に「仲通り」沿いにはお洒落な店構えのレストランが点在しており、最近ではタウン情報誌などでもそれらのお店のいくつかが紹介されているようだ。

横浜の観光スポット、ショッピングスポットのひとつとして数えられる元町は、そうした視点で見てももちろん十分に魅力的だが、敢えて地元の人のような顔をして歩けばさらに楽しい。カップルのデートコースとしてはもちろん、独りでの散策にも良く、家族のある人なら家族連れで訪れても楽しいだろう。訪ねれば訪ねるほどに再び訪れたくなる街だと、そんなふうに思える。
元町への最寄り駅はJR根岸線の石川町駅で、歩いてもすぐだ。元町からは中華街も近い。駅方面から元町通りを通り抜けるとフランス橋があり、そこから山下公園港の見える丘公園へも近い。それらの横浜の観光スポットへの散策の拠点として元町の街を捉えるのもよいかもしれない。
【追記】
2004年(平成16年)2月には東急東横線との相互乗り入れとなる「みなとみらい線」が開業、路線は元町1丁目まで延びて「元町・中華街駅」が誕生、「元町」の名を冠した駅として、まさに元町の玄関口となった。これに合わせるように元町商店街は街路の改修工事を施し、以前とは少しばかり表情を変えている。
元町