横浜線沿線散歩街角散歩
横浜市中区山手町
山手本通り
Visited in May 2002
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
山手本通り
横浜の山手町は明治期には外国人居留地だったところで、その緑多い丘には瀟洒な住宅が建ち並ぶ中に往時の面影を残す洋館などが残っている。港の見える丘公園の前から尾根を伝って西に延びる山手本通りは両脇にさまざまな洋館が並び、それらを訪ねての「洋館巡り」などは代表的な横浜観光のひとつとして人気を集めている。その山手本通りを歩いた。薄雲の広がる一日で、写真が少し暗い印象になってしまうのが残念だったが、しっとりと落ち着いた雰囲気に浸りながらの散策には良い日であったかもしれない。
イタリア山庭園
根岸線石川町駅を出て、南へ坂道を上るとイタリア山庭園へと至る。この場所に一時期イタリア領事館があったことからこの名がある。整然と幾何学的にデザインされた庭園が美しく、そこから見る横浜市街の眺望も楽しい。イタリア山庭園には「ブラフ18番館」と「外交官の家」が建っている。「ブラフ18番館」は大正末期に外国人住宅として建てられたもので、戦後はカトリック山手教会の司祭館として使用されていたという。1993年(平成5年)にイタリア山庭園内に移築され、その後は資料館として公開されている。「外交官の家」は明治末期に東京都渋谷区に外交官内田定槌(さだつち)氏の私邸として建てられたもので、横浜市が内田氏のお孫さんから寄贈され、この場所に移築復元されたものという。
山手本通り山手本通り
カトリック山手教会
イタリア山庭園から南へ出ると山手本通りだ。山手本通りを東へ少し歩くと、薄緑の尖塔が印象的なカトリック山手教会が見えてくる。そもそもは1862年(文久2年)に山下町に建てられた横浜天主堂からの歴史を引き継ぐ教会だという。横浜天主堂は開港後に初めて建てられたキリスト教会堂だった。やがて山手が外国人住宅地として発展したのに伴い、教会は山手44番に双塔のゴシック様式煉瓦造りの教会堂を1906年(明治39年)に建設、活動の拠点を移した。その教会堂も関東大震災で倒壊、現在の建物は1933年(昭和8年)に再建されたものだが、鐘は創建当時のものが現存し、庭のマリア像も1868年(明治元年)にフランスから贈られたものという。
カトリック山手教会の手前(西側)の小道を右(南)へ入り込んでゆくと、フェリス女学院大学がある。フェリス女学院大学はアメリカ人宣教師メアリー・キダーが1870年(明治3年)にヘボン博士の診療所で授業を始めたのが発祥という。山手に校舎が建てられたのは1875年(明治8年)、当時は「フェリス・セミナー」という名であったらしいが、1889年(明治22年)に「フェリス和英女学校」に改称、フェリス女学院の名となったのは戦後の1950年(昭和25年)のことであるらしい。「フェリス」の名はキダーを派遣したアメリカ改革派外国伝道教会のフェリス博士に因むものという。「フェリス女学院」という名は、横浜のみならず、全国的な知名度を持っているように思える。その歴史と教育方針、そして横浜山手という立地のためもあってか、その名は昔から独特のステータスを持って語られてきたような気もする。
テニス発祥記念館
フェリス女学院大学の入口の傍らを通り過ぎ、大学の裏手に回ると緑多い丘の斜面に山手公園がある。山手に暮らす外国人たちのために1870年(明治3年)に開園した庭園が発祥で、日本初の洋式公園として知られている。1878年(明治11年)には敷地内にテニスコートが造られ、日本でのテニス発祥の地としても知られる。園内にはこれを記念して「日本庭球発祥の地」碑やテニス発祥記念館などが置かれている。山手本通りからは少しばかり離れているためか、普段は観光客らしき人も少なく、静かな園内に地元の人たちの憩う姿があるだけだ。また歴史の古い公園らしく園内には桜の大木も多く、春の桜の時期の景観はとても素晴らしい。
山手公園から山手本通りに戻り、再び東へと辿ると左手(北側)に学校の建物が並ぶ。カトリック山手教会の道路向かい側にあるのは横浜山手女子高校・中学だ。1908年(明治41年)創立の横浜女子商業補習学校が母体という。大正末期に横浜女子商業学校を併設し、戦後の学制改革時に横浜女子商業学園中学校・高等学校に改称、平成になって普通課を併設、現在の校名となったのは1994年(平成6年)のことであるらしい。横浜山手女子高校・中学の東に隣接するのはフェリス女学院大学付属のフェリス女学院高校・中学だ。それぞれに歴史のあるこれらの学校が並ぶ様子や、そこに学ぶ女学生たちの通学姿は、横浜山手の象徴的風景のひとつであるかもしれない。
【追記】
カトリック山手教会向かい側の横浜山手女子高校・中学は、2010年10月1日、学校法人横浜山手女子学園が学校法人中央大学と法人合併したのに伴い、中央大学の附属学校「中央大学横浜山手中学校・高等学校」となった。
山手本通り山手本通り
汐汲坂
フェリス女学院高校の東側を元町商店街と山手本通りを繋いで急な坂道が辿っている。汐汲坂という。その名が意味するように、昔はこの坂を人々が海水を汲んで丘の上へ担ぎ上げたのだというが、その名の風雅な響きが印象的で、元町側にお洒落なお店が並ぶこともあって、今ではよく知られた地名なのではないかと思う。細く急勾配の坂道だが、道の両脇の家々の佇まいにも良い風情があり、のんびりと歩いてみるのも楽しい。
代官坂
汐汲坂との交差点を過ぎて、少しばかり歩くと「代官坂上」交差点に着く。この交差点から元町側へと降りる坂が「代官坂」だ。坂の途中に横浜村名主石川徳右衛門の屋敷があったことから「代官坂」と呼ばれるようになったもので、もともとは箕輪坂と呼ばれ、元町方面から丘を越えて本牧方面へと繋ぐ道が抜けていたのだという。今でも丘を南へ降りれば本牧通りへと抜け出るが、丘の下をトンネルも抜けており、「代官坂」を上り下りするのはもっぱら観光客なのではないかとも思える。坂の途中には「代官坂」の由来や石川徳右衛門について書かれた解説板が設置されており、訪れた際には見ておきたい。「代官坂上」の交差点から坂道を見下ろすと、マリンタワーがちょうど正面に見える。道脇の家々の木々の緑も美しく、なかなか素敵な景色が望める。
【追記】
この後、代官坂上からマリンタワーを見る方向に高いビルが建ったため、残念ながら坂上からマリンタワーは見えなくなってしまった。
「代官坂上」交差点からさらに東に山手本通りを辿ると、左手(北側)に「ベーリックホール」がある。1930年(昭和5年)にイギリス人貿易商ベリックの私邸として建てられたもので、1956年(昭和31年)から2000年(平成12年)までセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジの寄宿舎として使われていたものという。訪れた時には一般公開目前という段階だったが、これもまた山手観光の名所のひとつになることは間違いないだろう。
【追記】
ベーリックホールは、この二ヶ月後の2002年7月から一般公開が開始され、山手の観光名所のひとつとして多くの観光客を集めている。
エリスマン邸
「ベーリック・ホール」の前を過ぎて緩やかに曲がる山手本通りをさらに辿ると左手(北側)は元町公園だ。通りに面した広場には「エリスマン邸」が建っている。白くすっきりとして美しい姿は他の洋館とは少々印象が異なるが、「日本近代建築の父」とも呼ばれるレーモンドの設計という。大正末期にスイス人貿易商エリスマンの私邸として建てられたものを移築復元したものだ。「エリスマン邸」の手前を元町側へと入り込んでゆくと「山手80番館遺跡」がある。公園の緑に囲まれてひっそりと横たわり、往時の面影を偲ばせる。そのまま散策路を辿って元町公園の散策を楽しむのもいい。
山手本通り
山手本通りを挟んで「エリスマン邸」の向かいには山手234番館や横浜山手聖公会などが並び、この辺りが横浜山手観光の中心と言ってもよいだろう。これらの建物と木々の緑との織りなす風景は美しく、記念撮影をする観光客や元町公園側の広場でスケッチを楽しむ人の姿を見ることも多い。

山手234番館
山手234番館は昭和初期に外国人向けのアパートとして建てられたもので、外国人向けのアパートとしては現存する唯一の建物であるという。館内には山手の歴史を紹介する各種の資料が展示されている。横浜山手聖公会は開港直後には山下町にあった教会だが、後に現在地に移転、当時は尖塔のある煉瓦造りの教会堂であったらしいが、これもやはり関東大震災で倒壊、現在の教会堂は昭和初期の再建という。石張りの外観が印象的な重厚な印象の教会堂である。山手234番館に隣接する「えの木てい」は1927年(昭和2年)に建てられた洋館のリビングを開放して喫茶店としたものだ。異国情緒溢れる雰囲気が人気で、常に多くのお客で賑わっている。
山手本通りをさらに進めば、左手は視界が開けて眼下に外国人墓地、その向こうにマリンタワーやみなとみらいのビル群などが見える。外国人墓地には開港後の日本の近代化に貢献した技術者などをはじめ、さまざまな外国人が永眠している。十字架やマリア像などの墓標が並ぶ外国人墓地の景観は確かに異国情緒溢れるものだが、ここに眠る人々はまさか観光名所として人気を呼ぶようになるとは思ってもいなかっただろう。訪れた際にはその景観を楽しむだけではなく、やはり「墓地」という意味を考え、祖国を離れて遠い東の国に眠る人々への敬意と弔意を忘れてはなるまい。

山手資料館
山手本通りを挟んで外国人墓地の前に、まるで童話の世界に登場するような印象の建物が建っている。山手資料館だ。その名の示すように歴史資料などを展示した資料館だが、展示はそれほど規模の大きなものではない。この山手資料館の建物は明治期に建てられたもので、明治期の木造洋館として横浜に現存する唯一のものなのだという。その建物自体がひとつの貴重な歴史資料と言えるだろう。

山手資料館横の道を南へ入り込んでゆくと「ブリキのおもちゃ博物館」や「ヨコハマ猫の美術館」などがある。これも好きな人にとっては見逃せないものだろう。
山手十番館前
山手資料館から観光客に人気のレストラン「山手十番館」の前を過ぎると山手本通りは右手に折れ、右手に岩崎ミュージアム(岩崎博物館)を見ながら正面の港の見える丘公園へと至る。

岩崎ミュージアムは学校法人岩崎学園横浜洋裁学院の創立50周年記念事業として1980年(昭和55年)に建てられたものだ。当初は服飾関係資料の収蔵展示を行う施設だったが、現在ではアールヌーヴォー、アールデコ期の装飾、アート関連の総合的なミュージアムとして運営されている。この岩崎ミュージアムは1885年(明治18年)に建てられた商業劇場ゲーテ座の跡地に建ち、一階部分には「山手ゲーテ座」の名のホールを併設している。かつてのゲーテ座は横浜在住の外国人の発案によって建設されたもので、観客のほとんどは外国人であったらしいが、当時の日本では生の西洋演劇を鑑賞できる唯一の劇場であったために日本の文化人も足繁く通ったのだという。日本の近代演劇に多大な影響を与えた劇場だったが、そのゲーテ座もやはり関東大震災で崩壊している。

港の見える丘公園はその名の通り、横浜港を見下ろす景観が爽快で、横浜観光には欠かせない場所のひとつとして常に多くの観光客を集めている。園内に併設される大佛次郎記念館や県立神奈川近代文学館、イギリス館、山手111番館なども見逃せない。丘の上からフランス山の散策路や谷戸坂を下りて、西に辿れば元町商店街、フランス橋からポーリン橋を経由すれば山下公園、山下公園に沿った山下公園通りは山手本通りとともに「日本の道百選」にも選ばれている。山下公園からはさらに横浜港を見ながら「開港の道」が根岸線桜木町駅へと辿っている。
山手本通り
横浜山手観光の人気を集めるのは、やはり港の見える丘公園からカトリック山手教会の前辺りにかけてで、ガイドブックなどを片手に散策を楽しむ観光客の姿も多い。イタリア山庭園は少しばかり離れているためか、観光客の姿も少ないように思えるが、山手観光ではせひとも訪れたい場所だと思える。山手本通り沿いに点在する観光名所のそれぞれを訪ねてゆくのももちろん楽しいものだが、明治期に外国人居留地として発展した山手は道の有り様や家々の佇まいそのものにも味わいがあって散策は楽しい。

山手観光は特に女性に人気のある場所だと思えるが、根岸線の石川町駅を拠点に山手本通りの散策から元町でのショッピングなどを含めて巡るルートがお薦めだろう。それぞれの洋館などをじっくり見てゆくと一日では終わらないほど充実した内容のルートで、遠方から観光に訪れる人は自分なりに目指すものを絞っておいたり、日程に余裕を持って訪れるのが良いように思える。比較的近くに暮らし、日帰りが可能な人であれば、気軽な散策コースとして季節毎の表情を楽しみに訪ねても充分すぎるほどに魅力的な場所であることは言うまでもない。
山手本通り