群馬県高崎市の北部、榛名山のそびえる山深いところに榛名神社が鎮座している。1400年以上も前に創建されたという古社で、火産霊神と埴山毘売神を主祭神として祀る。榛名神社へ参拝した。
榛名神社
榛名神社は群馬県高崎市の北部、上毛三山のひとつに数えられる名山、榛名山から連なる山中深くに鎮座している。参道入口までは県道が通じて訪れるのも比較的容易だが、榛名川に沿った参道を辿って本殿へと向かえばますます山々は深くなり、周囲には巨樹が聳え、奇岩が覗く。やがて石段を登った先には岩崖に抱かれるようにして社殿が建ち、御姿岩が聳える。その光景はまさに神域、世俗からは遠く離れて凛とした空気に満たされている。
榛名神社
榛名神社
榛名神社はすでに1400年以上を経た古社である。創建は第31代用明天皇の代(585〜587年)という。927年(延長5年)に完成した「延喜式神名帳」にもその名が記された、すなわち「延喜式内社」である。ちなみに「延喜式神名帳」は醍醐天皇が編纂した法典「延喜式」の巻九と巻十のことで、簡単に言えば当時の官社の一覧、これに記載されている神社がいわゆる「延喜式内社」である。「延喜式内社」であるというだけで、千年以上の歴史を持つ古社であることになる。
榛名神社
榛名神社
榛名神社は鎮火開運の神として火産霊神(ほむすびのかみ)と五穀豊穣の神として埴山毘売神(はにやまひめのかみ)の二柱の神を主祭神として祀る。明治以降は大山祇神(おおやまつみのかみ)、御沼神(みぬまのおかみのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)を合祀している。神仏習合の時代には満行宮榛名寺といい、上野寛永寺に属し、「延喜式神名帳」にも「上野十二社」のひとつとして載っているという。榛名山信仰の拠り所として山麓の農民からも広く信仰を集め、近世になると江戸商人にも信仰者が多かったという。神仏習合の時代が長く続いたが、明治の神仏分離によってようやく榛名神社として独立、現在に至っている。
宿坊
榛名神社参道入口付近、「宿坊」が軒を並べる一角に「宿坊の看板について」と題された解説板がある。それには、“近世になると榛名神社への信仰を広める人達、「御師(おし)」の活動により「榛名講」の発展をみました”とある。「榛名講」とは榛名神社を信仰する団体のことで、関東全域から信濃、越後、甲斐にまで広く分布していたという。その「榛名講」から選ばれた数名が“代参者”として毎年春に参拝のために山に登った。代参者は御師と共に神社に参拝し、神礼を受け、村に帰って講中の家々に神礼を配布したのだという。
宿坊
参拝に訪れた代参者のために、その宿泊や食事を準備する施設が必要になるわけで、そうしたことを営む家を「宿坊」と呼ぶ。“講”からの代表者が参拝する形式は“代参講”と呼ばれるようだが、元禄から寛政にかけての頃(1600年代末から1700年代にかけての頃)に最も盛んになり、それに伴って宿坊の数も増えて最盛期には百軒を超え、門前町である社家町は大いに発展したのだという。
宿坊
明治維新の後は代参講そのものが衰退し、宿坊の数も減っていったという。現在では十数件の「宿坊」が参道の両脇に並び、食事処や土産物店として営業を続けている。中には国登録有形文化財となった建物の宿坊もあり、往時の様子を思い浮かべなから歩いてみるのも楽しい。各宿坊には同じ意匠の木製の看板が掲げられており、これは往時の社家町を再現するために立てられたものとのことだが、なかなか良い風情を醸している。
宿坊
随神門
「宿坊」が並ぶ参道の坂道を上って大きな鳥居をくぐると、堂々とした門が出迎えてくれる。随神門だ。神仏習合の時代には仁王門だったが、廃仏毀釈の際に仁王像が取り除かれ、現在は随神が置かれている。1847年(弘化4年)に再建されたもので、国指定重要文化財である。随神門手前横には土産物店を兼ねた茶屋が営業しており、“観光地”的な雰囲気だが、門をくぐった先は空気が一変する。まさに神域、凛とした空気が辺りを満たしている。
随神門
鞍掛岩
随神門をくぐって参道を進むとやがて右手、榛名川の対岸に「鞍掛岩」という奇岩が見えてくる。参道からはわかりづらいが、河岸の崖部に岩が橋のようにアーチ状を成している部分がある。元々は洞穴状だったものが奥の部分が落ち、このような形状になったらしい。「鞍掛」という名は、例えば戦国の時代などに名のある武将が鞍を掛けたなどといった伝承がありそうに思えるのだが、特に名の由来となった故事などはないようだ。「鞍をかけたような」形状と言った意味だろうか。「岩崖(いわくら)が欠け落ちた」ことに由来する名だとする説もあるようだ。
鞍掛岩
千本杉
参道をさらに進んでゆくと、いよいよ山懐の奥深くへと入り込んでゆくような印象がある。歩いていると参道周辺に立派な杉の木が多いのに気付く。「千本杉」と呼ばれているらしい。「千本杉」と記した名標が立てられており、それに添えられた説明によれば樹齢100年から400年の杉が千余本あり、そう呼ばれるようになったという。
千本杉
三重ノ塔
「鞍掛岩」や「千本杉」を見ながら参道を進んでゆくと、「みそぎ屋」と「山昇堂」という二軒の土産物店が参道脇に建っている。その横を過ぎると、その先には石段があり、石段を登った先には鳥居がある。その石段脇、左手に「三重ノ塔」が建っている。神仏習合の名残を留める建造物で、現在は「神宝殿」と呼ぶのだそうだ。現在の建物は1869年(明治2年)に再建されたもので、高崎市の重要文化財に指定されている。群馬県内で唯一の塔だそうだ。
三重ノ塔
神橋と行者渓
「三重ノ塔」の横を過ぎると周囲はいよいよ深山幽谷の味わいである。崖横を通る参道に設けられた落石防護屋根の“トンネル”を抜けると「神橋」が架かっている。この「神橋」の左手奥は深い峡谷になっており、「行者渓」と呼ばれているという。修験道の創始者である役小角(えんのおづぬ)、いわゆる役行者(えんのぎょうじゃ)が、ここで修行を行ったと言われているそうだ。「神橋」から見るだけでも奇岩の張り出した渓谷の風景に目を奪われる。この奥にはさらに巨岩、奇岩が連なり、朝日岳と夕日岳という岩山が聳えているそうだ。

「行者渓」は歌川広重による「六十余州名所図会」の中にも描かれているという。「六十余州名所図会」は歌川広重の晩年の作品で、日本全国の名所を描いたものだ。目録を含めて全70枚から構成される作品で、その中の「上野 榛名山 雪中」と題されて描かれているのが「行者渓」の雪景であるらしい。蛇足だが、「上野 榛名山 雪中」の「上野」は「うえの」ではなく、「上野国(こうずけのくに)」、ほぼ現在の群馬県に相当する。
神橋
行者渓
萬年泉
「神橋」からさらに進むと先には石段が登っている。その脇に「萬年泉」という泉がある。要するに“涸れることがない”という意味の名だが、そのことからか、この水は雨乞いの御神水として信仰されているという。古来、榛名神社は雨乞いの神としても信仰を集めており、雨乞いの際にはこの御神水をいただくのだという。名標には「古来農村日照にて苦しむときこの御神水を竹筒にいただき祈願を受け村に帰り田畑にまけば必ず霊験ありと」と添えられている。
萬年泉
瓶子の滝
「萬年泉」横の石段を登ると御水屋が建っている。その御水屋の前から右手を眺めてみると、川の対岸の崖に一筋の滝が落ちている。「瓶子の滝」という。「瓶子」は神酒を入れるための錫製の器のことで、「みすず」と読む。滝の両脇の岩を瓶子岩と呼んでいたことから、滝を「瓶子の滝」と呼ぶようになったという。御水屋の前からは川の対岸に見るだけだが、参道より一段下を辿る遊歩道を辿ってくれば滝壺近くまで降りることもできるようだ。
瓶子の滝
矢立杉
御水屋の前にはひときわ立派な姿で聳える杉の大木がある。「矢立杉」という。国指定天然記念物だそうだ。かつて武田信玄が箕輪城を攻める際、この杉に矢を立てて戦勝を祈願したという。樹齢は推定で1,000年、幹周りは9m、高さは30m以上という、まさに天を突くような巨木である。
矢立杉
神幸殿
御水屋の前から左手の崖上に長い石段が登っている。その途中、矢立杉のすぐ上の左手に神幸殿という建物が建っている。古式の仏堂の形式だそうで、1859年(安政6年)に建立されたものだ。国指定重要文化財である。
神幸殿
神門
神幸殿を見ながらさらに石段を登ってゆくと、やがて岩塊に挟まれるように建つ神門が迎えてくれる。この神門も神仏習合時代の名残であるらしい。小さな門だが、古代の人々は両脇の奇岩そのものを“門”に見立てたのかもしれない。ここを過ぎると、いよいよ神の磐座(いわくら)に足を踏み込むのだという気分がする。
神門
双龍門
神門をくぐるとさらに石段が登っており、その上には双龍門が建つ。奇岩を背負って建つ姿はまったく仙境の佇まいである。門の左横に聳える奇岩は鉾岩(ほこいわ)、あるいは蝋燭(ろうそく)岩と呼ばれているという。その形からそうした呼び名が生まれたのだろう。双龍門は本来は御唐門といい、1855年(安政2年)の建立、総檜造り、間口十尺というから3mほどか。現在は国指定重要文化財になっている。

双龍門の四枚の扉のそれぞれには丸く文様化された龍の彫刻が施されており、さらに天井には昇り龍と降り龍の水墨画が描かれているという。そうしたことからいつの間にか双龍門の呼び名が定着したものらしい。奇岩を背負った景観ばかりに目が行ってしまうが、門全体に精緻な彫刻が施されており、それらもじっくりと見学しておきたい。
双龍門
双龍門
社殿と御姿岩
双龍門をくぐってさらに登ればいよいよ榛名神社の社殿だ。岩山の中腹の僅かな平地に築かれたというふうで、背後には奇岩群が聳えて目を奪われる。双龍門から石段を上がったところには神楽殿が建ち、その奥に額殿と国祖社が並ぶ。その横、石段を上がってきて右手正面に本殿が建っている。見えているのは拝殿で、その奥に本社が建ち、両者を繋いで幣殿がある。本社はその背後に聳える「御姿岩(みすがたいわ)」と一体になる形で造られているという。

本社、幣殿、拝殿は入母屋の権現造りで屋根は銅板葺、1806年(文化3年)の再建という。国祖殿は元々は榛名山西部の御祖霊嶽にあったものらしいが、いつの頃からか本社近くに摂社として祀るようになったものという。神仏習合時代には本地仏を安置し、本地堂とも呼ばれていたそうだ。額殿は国祖殿を増築する形で1814年(文化11年)に建立されたものという。本来は神楽の拝見所だそうだ。神楽殿は1764年(明和元年)に再建されたもので、言うまでもないが神に奉納するための神楽が舞われる建物だ。本社、幣殿、拝殿、国祖殿、額殿、神楽殿のすべてが2005年(平成17年)に国指定重要文化財の指定を受けている。額殿の左手には群馬県で最古という鉄灯籠がある。県指定重要文化財で、1323年(元亨3年)に沙弥願智が奉納したという銘文があるらしい。
拝殿
額殿と国祖社
鉄灯籠
壮麗な社殿の姿ももちろん素晴らしいものだが、何しろ目を引くのは本殿の背後に聳える御姿岩だ。奇岩の多い榛名神社の中でもそれを代表する奇岩だろう。頂上部の岩塊はまるで人の頭部を思わせるもので、その下のくびれは首を思わせ、基底部の岩山が胴体だ。例えば、ここにまだ神社が築かれる前、山懐深く、仙境を思わせる谷の奥に、初めてこの岩の姿を見たとき、人は何を思っただろう。その姿に畏怖し、神の依代(よりしろ)、あるいは神の姿そのものと思ったのではないだろうか。御姿岩の下部には洞窟があり、そこに主祭神が祀られているそうだ。「御内陣」と呼ばれる神聖な場所だという。

ここはまさに神域、厳かな気持ちで参拝を済ませた後は、静かに社殿群や御姿岩の姿を見学していこう。
御姿岩
拝殿
榛名神社
榛名神社
奇岩群が聳える山中、深い緑に包まれた榛名神社は世俗の喧噪を遥かに離れ、静けさの中に神域としての凛とした空気を満たしている。特に御姿岩に見守られるように社殿の建つ一角は何か人の手の及ばない神聖なものの近くにいるのだという気分にもなる。その“神聖なもの”、それは人の力ではどうにもならない“自然の力”、“自然の営み”というものかもしれない。それを、我々日本人は昔から“神”と呼ぶ。山や川や木や岩、森羅万象のすべてに神がおられる。仏教が伝来する以前の日本人の宗教観に思いを馳せたくなる、そんな榛名神社参拝である。
参考情報
交通
公共の交通機関を利用して訪れる場合、JR高崎駅から群馬バスを利用する。「本郷」経由「榛名湖」行きの路線に乗り、「榛名神社前」で下車すればいいようだ。バスは一時間に一便ほど運行しているという。

車で来訪する場合は榛名湖畔から県道33号を南下するか、あるいは国道406号方面から県道33号を北上する。

榛名湖畔から南下する場合は、とりあえず榛名湖を目指せばいい。関越自動車道渋川伊香保ICから県道33号を西進するなどして、伊香保温泉を抜けてさらに進めば榛名湖だ。榛名湖の南岸で県道33号が南へ逸れ、天神峠を越えて榛名神社入口へと至っている。

関越自動車道方面から国道406号を辿って榛名神社へ向かう場合は、高崎ICや前橋ICから国道406号へ向かい、これを西進、川を渡って「室田」交差点で県道211号へ逸れ、そのまま県道211号を辿ってゆけばやがて県道33号に合流、これを北上すればいい。

軽井沢方面から訪れる場合も一旦高崎市へ向かい、高崎市から国道406号へと辿った方がわかりやすく、走りやすいように思われる。

榛名神社への参道入口周辺には宿坊が建ち並び、参拝者用の駐車場も用意されている。初詣などの繁忙期以外は駐車に困ることはないと思える。神社本殿は参道入口から20分ほど歩く。歩きやすい靴を履いてゆくことをお勧めする。

飲食
参道入口周辺には宿坊が建ち並び、それらの多くで食事が可能だ。どこかを選んで食事を楽しむといい。お弁当持参で参拝に訪れる人はあまりいないと思うが、お弁当持参の人は榛名湖畔へ行って楽しもう。

周辺
榛名神社から県道33号を北へ向かえば峠を越えて榛名湖だ。湖畔の“榛名富士”を眺めながら榛名湖観光を楽しもう。榛名湖畔から県道33号を北東側に降りてゆけば伊香保温泉、温泉街の風情を味わいながらの散策も楽しい。伊香保温泉に宿を求めるのもお勧めだ。
社寺散歩
群馬散歩