長野県伊那市のほぼ中央に高遠城址公園がある。国指定史跡の高遠城跡を整備した公園で、高遠桜の名所として知られるが、秋には紅葉も美しい。紅葉が見頃の十一月上旬、高遠城址公園を訪ねた。
紅葉の高遠城址公園
紅葉の高遠城址公園
長野県伊那市の北東部は、かつて長野県上伊那郡高遠町だったところだ。そもそもは高遠城の城下町だったところで、1875年(明治8年)に西高遠町と東高遠町が誕生、1889年(明治22年)、町村制が施行され、西高遠町と東高遠町の両区域から成る高遠町が発足した。以後、周辺の村を合併しつつ歴史を刻んできたが、2006年(平成18年)、伊那市と上伊那郡長谷村、高遠町の一市二村が合併、新しい伊那市が発足、高遠町は117年の歴史に幕を下ろしている。

かつての高遠町の南部、現在の伊那市のほぼ中央部に、高遠城趾がある。高遠城はいつ頃、誰によって築城されたのかはよくわかっていないらしいが、戦国時代までこの地域を治めていた高遠氏の居城だったという。1545年(天文14年)、高遠城は武田信玄の大軍に攻められ、当時の城主であった高遠頼継は武田軍に降伏、城を明け渡す。その後、武田氏に従った高遠氏だったが、やがて頼継は自害、没落していったという。
紅葉の高遠城址公園
紅葉の高遠城址公園
紅葉の高遠城址公園
高遠城は地理的に重要な軍事拠点だったようだ。1547年(天文16年)、武田信玄は山本勘助と秋山信友に命じて高遠城の大改修を行う。山本勘助が縄張り(現在の“設計”のこと)を行ったと伝えられている。山本勘助が造った、いわゆる“勘助曲輪”について、西側に設けられた駐車場脇に解説パネルが設けられている。曲輪周囲の堀は戦後に埋め立てられ、旧高遠高校グラウンドとして使われた後、現在は駐車場になっているとのことだ。勘助曲輪の広さは769坪(2542平方メートル)で、曲輪内には櫓や祭事事務所、硝煙小屋、稲荷社などがあったそうだ。稲荷社は幕末に城下に払い下げられ、相生町に勘助稲荷として祀られているという。

改修の後は秋山信友が高遠城主となったが、その後、1562年(永禄5年)に武田勝頼が諏訪氏を継承して高遠城主となった。1570年(元亀元年)には勝頼は呼び戻され、信玄の実弟である武田信廉が高遠城主となる。そして1573年(元亀4年)、武田信玄が亡くなる。1581年(天正9年)、武田勝頼の弟、仁科盛信が高遠城主となるが、翌1582年(天正10年)、織田信長による武田攻めが始まる。世に言う「武田征伐(甲州征伐)」である。高遠城には織田信長の長男、織田信忠率いる大軍が迫った。その数、五万とも三万とも言われる。対する高遠城は三千ほどの兵力で籠城、信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、兵力の差は歴然としており、ついには高遠城の全員が玉砕(一説にはわずかに逃げ延びた者もあったという)、落城する。武田氏が滅亡するのはそれから間もなくのことである。
紅葉の高遠城址公園
紅葉の高遠城址公園
武田氏滅亡の後は、高遠城は織田家家臣、毛利長秀の支配下となるが、同1582年(天正10年)6月、本能寺の変が起こって織田信長が死去、信濃、甲斐の所領を巡って「天正壬午の乱」が起きる。情勢が混乱する中、高遠城の支配も保科正直、毛利秀頼、京極高知と変遷する。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いによって徳川家康が天下を掌握、徳川の治世が始まる。高遠城には保科正直の長男、保科正光が城主として復帰する。保科正光の跡を継いだ保科正之は1636年(寛永13年)に山形へ移り(後に会津へ移り、会津松平家初代当主となる)、鳥居氏が高遠城主となるが、1691年(元禄4年)、内藤氏が高遠城に入封、以後、明治維新を迎えるまで、高遠城は八代続く内藤氏の居城だった。
紅葉の高遠城址公園
紅葉の高遠城址公園
御殿や櫓、門など、城の建物は明治維新後にほとんどが解体、移築されてしまい、1860年(万延元年)に創設されたという藩校、進徳館の建物が辛うじて現存する以外には、建物はまったく残されておらず、空堀や土塁の跡に往時を偲ぶことができるだけだ。高遠城趾が公園となったのは1875年(明治8年)のことだそうだ。現在の高遠城址公園はタカトオコヒガンザクラの名所として広く知られるが、廃藩置県(1871年、明治4年)後に旧高遠藩士たちが桜の馬場から桜を城跡に移植したそうで、“桜の名所”としての歴史もなかなか長い。花見の時期には大勢の花見客で賑わうそうである。
紅葉の高遠城址公園
紅葉の高遠城址公園
紅葉の高遠城址公園
今回高遠城址公園を訪れたのは11月初旬、公園の紅葉がちょうど見頃となった時期だった。桜ほどは有名ではないようだが、城跡のはカエデの木が多く植えられており、紅葉の名所でもあるのだ。紅葉は見頃だったが、残念ながら天候は雨、傘を差しての散策だった。それでも「高遠城址もみじ祭り」の開催中とあって、来園者は少なくなく、さまざまなイベントなども行われて賑わっていた。

高遠城址には御殿などの建物は残されていないが、本丸や二の丸、法幢院曲輪、南曲輪、笹曲輪、空堀などの遺構が残る。それぞれの遺構には簡単な解説を添えた案内パネルが設置されており、それらを丹念に見ながら往時を偲ぶのも一興だろう。

そしてそのほぼ全域で美しい紅葉の景色を楽しむことができる。紅葉の林となった二の丸や南曲輪などを園路に沿って歩くのも良い風情があり、紅葉に覆われた空堀の景観も美しい。そしてやはり、高遠城址公園の象徴とも言える「桜雲橋」と紅葉との組み合わせが見せる風趣に富んだ景観は格別の見事さだ。園内の随所でさまざまに美しい紅葉の景色に出会うことができ、飽きることがない。秋晴れに恵まれれば、また違った印象になって美しい景観が楽しめるに違いないが、しっとりと雨に濡れた様子もなかなか興趣のあるものだ。“紅葉の名所”の形容に恥じない見事さだと言っていい。
大手門跡
高遠城址の北西側、国道152号から登ってきたところに「大手門跡」とされる石垣が残っている。築城当初は大手は東に、搦手が西に位置していたという。大手が西に変わったのは江戸時代初期のことらしい。廃城後は周辺は大きく変わり、往時を偲ぶことも難しい状況のようだが、道路南側に突き出した大きな石垣が大手枡形の一部と思われるという。
高遠城址公園/大手門跡
伝高遠城大手門
「大手門跡」の少し東側、道路北側に高遠城大手門と伝えられる門が残されている。ここには1984年(昭和59年)まで高遠高等学校があり、その正門として使用されていたという。明治維新後、城の建物は競売されて民間に払い下げられたが、この門もそのうちのひとつで、かつての大手門と言われているらしい。もちろん往時のままというわけではなく、切り詰められているようだ。伊那市富県の那須退蔵氏(故人)から寄贈を受け、高遠高等学校の正門として移築されたものという。

説明のパネルが添えられていなければ、かつての大手門の一部であることにすら気付かないような様相だが、それも時代の変遷を映しているということだろう。門の奥(すなわちかつて高遠高等学校が建っていた場所か)は、今は広場になっており、東側に一段上がるとそこでも紅葉の景色を楽しむことができる。立ち寄ってみるといい。
高遠城址公園/伝高遠城大手門
高遠城址公園/伝高遠城大手門奥の紅葉
進徳館
大手門から100メートルほど東、道路北側に「進徳館」の建物が残っている。進徳館は1860年(万延元年)に当時の高遠藩主内藤頼直が創設した藩学校だそうだ。進徳館では和学、漢学、筆学、兵学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術、柔術、さらには洋学など、多岐に渡る教育を行い、幾多の人材を輩出したという。建物は平屋茅葺き、八棟造りだったそうだが、現存するものは東西二棟と玄関、表門で、他は1871年(明治4年)に閉鎖された後、取り払われたそうだ。西棟は聖廟、師範詰所、教場、講堂で、東棟は生徒控所だったらしい。

建物は保護のために内部に立ち入ることはできず、外観や外から見える室内の様子を見学できるだけだが、なかなか興味深く、訪れたときにはぜひ見ておきたい。この進徳館の建物も「高遠城跡」として指定を受けた国の史跡の一部である。
高遠城址公園/進徳館
高遠城址公園/進徳館
高遠閣
進徳館の斜向かい、「北ゲート」から高遠城址公園に入ると、左手に真っ先に見えてくるのが「高遠閣」という建物だ。高遠閣は町民の集会所、観光客の休憩所などとして使用するため、有志の発案、寄付によって建てられたものという。完成したのは1936年(昭和11年)のことだそうだ。入母屋造りの木造総二階建て、間口14間(約25.4m)、奥行9間(約16.4m)、峯高10間(約18.2m)という堂々とした建物で、2002年(平成14年)に国の登録有形文化財に指定されている。2003年(平成15年)から2004年(平成16年)にかけて構造補強やバリアフリー化の工事が行われたそうで、今も現役で使われている建物である。今回訪れたときは入館することはしなかったが、「高遠そばまつり会場」となって賑わっていたようである。
高遠城址公園/高遠閣
高遠城址公園/高遠閣
高遠湖
高遠湖
三峰川
絵島囲み屋敷
絵島囲み屋敷
絵島囲み屋敷
絵島囲み屋敷
高遠城址公園の丘の南側には高遠湖という湖が横たわっている。高遠湖は天竜川の支流である三峰川に造られた高遠ダムによって生じたダム湖である。その高遠湖の岸辺、高遠城址公園の「南ゲート」から信州高大美術館の横を抜けて降りていったところに伊那市立高遠町歴史博物館が建っている。その名が示すように、高遠町のさまざまな歴史資料を保存、展示している施設だが、この博物館の敷地内に「絵島囲み屋敷」が復元、展示されている。「絵島」とは、世に言う「絵島生島事件」の、あの「絵島」である(「江島」の表記もあるが、ここでは現地の表記に倣い「絵島」と表記したい)。

絵島は、第七代将軍徳川家継の生母、月光院に仕えて大奥に入り、大年寄にまで出世した人物である。1714年(正徳4年)正月12日、絵島は月光院の名代で芝増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた。その帰り、親しくしていた呉服商後藤縫殿助に誘われ、木挽町(現在の歌舞伎座辺り)の芝居小屋「山村座」で当時人気のあった役者生島新五郎の芝居を見物する。芝居見物の後、絵島は生島を招いて宴を催すのだが、これに夢中になったあまり大奥の門限に遅れてしまう。大奥七ツ口での絵島と門番との“通せ”、“通さぬ”の押し問答となり、その騒ぎは城中に知れ渡り、評定所によって審理される事態になってしまう。結果、絵島ほか二名が死罪、流罪十名、他にも大勢が罪に問われた。絵島は月光院の口添えによって死罪を免れ、高遠藩内藤清枚にお預けの身となった。事実上の遠流となった絵島は1714年(正徳4年)から1741年(寛保元年)に61歳で病死するまで、この高遠の地に暮らすのである。

当時、大奥内では月光院と家宣の正室である天英院との勢力争いがあった。この一件で多くの関係者が粛清されたが、劣勢だった天英院側が勢力を挽回するための好機として利用したのではないかと言われる。絵島が大奥に生島を秘密裏に招き入れて情事に及んだという話や、そもそも事件そのものが天英院側の陰謀だったという話もあるが、それらは後にこの事件が芝居や物語として描かれた際に加えられた創作であるようだ。

現在公開されている「絵島囲み屋敷」は残存する古図を基に1967年(昭和42年)、ほぼ同じ場所に復元されたものという。囲み屋敷は小さな建物だ。その中に絵島の部屋や番人の詰所などが設けられている。屋敷を囲む塀には「忍び返し」が付けられていたという。絵島の部屋は八畳、周囲には格子がはめ込まれ、開けることはできなかった。世話係の下女がひとりつけられての幽閉生活だった。

設置された解説によれば、絵島を高遠に流すに当たって老中阿部豊後守から高遠藩主内藤駿河守に文書や口頭でさまざまな指示があったらしい。絵島はお預けではなく、あくまで遠流の身として取り扱うことと指示されていたようだが、高遠藩にとっては幕府からの“預かり”であり、その取り扱いにはかなり慎重であったらしい。細かな取り扱いについて高遠藩は幕府に伺書を出して絵島の対応に当たったようで、その内容が紹介されている。硯や紙は与えなくてよい、煙草も与えなくてよい、扇子・団扇・楊子は与えてよい、髪結いの道具なども与えてよい、風呂にも入れてよい等々、藩主がときどき様子を見に行かなくてはならないかとの問いには、そのようなことはしなくてよろしいとのことである。

その八畳一間の空間で、絵島は1719年(享保4年)から亡くなるまでの二十年余を暮らした。日蓮宗に帰依し、信仰の日々だった。江戸でのことは、世話係の者にもいっさい語ることはなかったという。
絵島囲み屋敷
参考情報
高遠城址公園は桜の花期には入園料が必要になる。それ以外の季節には入園料は必要なく、自由に入園できる。

交通
高遠城址公園へは車での来訪が便利だ。茅野市方面から国道152号を南下、あるいは伊那市中心部方面から国道361号を東進するといい。中央自動車道を利用する場合は諏訪ICから国道152号へ、あるいは伊那ICから国道361号へと辿ればいい。東京方面からなら諏訪ICを、名古屋方面からなら伊那ICを利用するのが近い。

公園には来園者用の駐車場が用意されており、駐車台数にも余裕がある。桜の時期にはさらに近隣に臨時駐車場が設けられるようだ。

鉄道を利用して来園する場合はJR飯田線伊奈駅か伊那北駅で下車し、駅からバスを利用しなくてはならない。

飲食
公園内や近辺には飲食店はほとんどない。高遠の町へ移動してお店を探すのが賢明だ。

陽気の良い季節ならお弁当持参で訪れるのも悪くなさそうだ。

周辺
公園から南へ降りると高遠ダムと高遠湖がある。ひととき湖畔の散策を楽しむのもお勧めだ。

公園の北西側に高遠の町が広がっている。町歩きの好きな人なら散策を楽しむといい。

高遠から国道152号(杖突街道)が北へ延びている。道沿いには美しい田園風景が広がっている。車で訪れたなら少しドライヴを楽しむといい。
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