「花沢の里」から北東側へ、ハイキングコースとなった山道を登ってゆくと日本坂峠が近い。日本坂峠を越えて、花沢の谷筋をかつて古代東海道が通っていた。奈良期、平安期には静岡と焼津を結ぶ重要なルートだったのだ。「日本坂」という地名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の際に通ったことに由来すると言われる。そもそも「焼津」の地名も、日本武尊の東夷征伐の際に天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)によって燃える草を薙ぎ払って賊を滅ぼしたという、古事記や日本書紀に描かれたエピソードに由来するとされる(このエピソードによって天叢雲剣は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるようになる)。
「焼津」の名は、万葉集にも詠われている。万葉集第三巻、春日倉老(かすがのくらのおゆ)が詠んだ「焼津辺(やきつべ)に わが行きしかば 駿河なる 阿倍の市道(いちぢ)に 逢ひし児らはも」である。この歌は、春日倉老が焼津付近に行った際に駿河の阿倍の市の道で出会った娘たちを思い出して詠んだものである。現代語に訳せば「焼津の辺りに行ったとき、駿河の阿部の市の道で出会った娘たちよ(今はどうしているのだろう)」といったところか。この歌に因んでか、「花沢の里」を抜ける旧街道は「やきつべの小径」の名でも呼ばれ、集落の中の道脇には上記の歌を刻んだ歌碑もある。