静岡県磐田市中心部のやや北方に位置する「見付」の地、「見付宿場通り」の北側に「旧見付学校」という建物がある。その名を見れば一目瞭然、かつて学校として建てられた建物である。
見付学校は1872年(明治5年)の学制発布を受けて建てられた。当時、この辺りは浜松県で、浜松県は第2大学区に属しており、見付の地はその「第2大学区」の「第12番中学区第1番小学」だった。当初、見付学校は寺院の建物を仮校舎として始まったが、淡海国玉神社から境内地が寄付され、そこに新校舎が建てられることになる。新校舎は1874年(明治7年)10月に着工、翌1875年(明治8年)に落成した。
そもそも見付の地は遠江国の国府が置かれていたところで、東海道の宿場としても発展したところだ。国学が盛んで、教育にも力が注がれていた土地柄だったようで、私塾も多かった。見付学校の建設に際して土地を寄付した淡海国玉神社の神官大久保忠尚も、そうした私塾を主宰していた一人である。私塾を主宰する国学者の中には文庫、今で言う図書館を設立する者も多かったが、大久保もまた淡海国玉神社境内地に「磐田文庫」を設立している。現在、旧見付学校の校舎の裏手に建つ「磐田文庫」がそれである。
見付学校は1872年(明治5年)の学制発布を受けて建てられた。当時、この辺りは浜松県で、浜松県は第2大学区に属しており、見付の地はその「第2大学区」の「第12番中学区第1番小学」だった。当初、見付学校は寺院の建物を仮校舎として始まったが、淡海国玉神社から境内地が寄付され、そこに新校舎が建てられることになる。新校舎は1874年(明治7年)10月に着工、翌1875年(明治8年)に落成した。
そもそも見付の地は遠江国の国府が置かれていたところで、東海道の宿場としても発展したところだ。国学が盛んで、教育にも力が注がれていた土地柄だったようで、私塾も多かった。見付学校の建設に際して土地を寄付した淡海国玉神社の神官大久保忠尚も、そうした私塾を主宰していた一人である。私塾を主宰する国学者の中には文庫、今で言う図書館を設立する者も多かったが、大久保もまた淡海国玉神社境内地に「磐田文庫」を設立している。現在、旧見付学校の校舎の裏手に建つ「磐田文庫」がそれである。