浅草寺は山号を金龍山といい、聖観世音菩薩を本尊とする聖観世音宗の総本山、東京都内で最古の寺院であるという。「浅草寺縁起」に依れば、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が投網の中に人型の像を見つけたことに端を発する。時は飛鳥時代、推古天皇の御代36年のことという。西暦で言えば628年のことで、いわゆる「大化の改新」以前の出来事である。拾い上げた人型の像を土師中知(はじのなかとも)に見てもらったところ、その像は聖観世音菩薩像だった。土師中知は出家して僧となり、自らの屋敷を寺としてこの仏像を安置、供養したという。これが浅草寺の始まりである。この土師中知の名については他説もあり、浅草神社では土師真中知(はじのまなかち)としているようだ。土師中知(あるいは土師真中知)は郷の長、豪族で、今で言う「文化人」だったようだ。
その17年後の大化元年(645年)、勝海上人が観音堂を建立、夢告により本尊の聖観世音菩薩像を秘仏と定めた。聖観世音菩薩像は一寸八分(約5cm)の黄金仏と伝えられているようだが、勝海上人が秘仏と定めて以来、現在に至るまで非公開であるために確かめようもない。それからさらに200年ほどを経た平安時代初期、比叡山延暦寺の慈覚大師が秘仏に模した「お前立ち」(秘仏の代わりの開帳仏として人々が拝むための観音像)を造ったのだという。このため、浅草寺では勝海上人を創設者の意味の「開基」と呼び、慈覚大師を中興開山と呼ぶ。
その17年後の大化元年(645年)、勝海上人が観音堂を建立、夢告により本尊の聖観世音菩薩像を秘仏と定めた。聖観世音菩薩像は一寸八分(約5cm)の黄金仏と伝えられているようだが、勝海上人が秘仏と定めて以来、現在に至るまで非公開であるために確かめようもない。それからさらに200年ほどを経た平安時代初期、比叡山延暦寺の慈覚大師が秘仏に模した「お前立ち」(秘仏の代わりの開帳仏として人々が拝むための観音像)を造ったのだという。このため、浅草寺では勝海上人を創設者の意味の「開基」と呼び、慈覚大師を中興開山と呼ぶ。