山本有三は1887年(明治20年)、栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれた。本名は「勇造」、実家は呉服商を営んでいたという。高等小学校を卒業した後は浅草の呉服商に奉公に出されたが、奉公先を逃げ出して郷里に戻ったという。上級学校への進学を希望したが許されず、一時期は家業に就いていたらしい。
山本の郷里である
栃木市には中心街である「蔵の街大通り」沿いに「山本有三ふるさと記念館」が建てられている。江戸時代に建てられたという見世蔵(店舗として使用するために建てられた蔵)を改修、整備したもので、山本有三の生家ではないようだが、生家の呉服店も立派な見世蔵の店舗であったらしい。ちなみに栃木市街からほど近い大平山には「路傍の石」の一節を記した碑が建てられているが、1963年(昭和38年)に行われた除幕式には当時78歳の山本有三本人も出席したという。
1905年(明治38年)、ようやく進学が許された山本有三は神田正則英語学校に入学、翌年には東京中学校に編入、その後には第一高等学校へと進学、一高時代の同級生には近衛文麿や土屋文明らがいたという。1912年(大正元年)、東京帝国大学独文科選科に入学、在学中に久米正雄、豊島与志雄、松岡譲、芥川龍之介、菊池寛らと第三次「新思潮」を興している。
東京帝国大学卒業の後は舞台監督や大学講師などを務めていたが、1920年(大正9年)に戯曲「生命の冠」で文壇デビューを果たす。1926年(昭和元年)には菊池寛、芥川龍之介らと文芸家協会を結成している。大正の末期頃からは小説の執筆にも注力し、朝日新聞への連載などを務めるようになる。代表作である「真実一路」を主婦之友に連載開始したのは1935年(昭和10年)、朝日新聞に「路傍の石」の連載を開始したのは1937年(昭和12年)のことだ。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員に推挙されている。
戦後は参議院議員を六年間務め、政治家としても名を残しているが、生涯文筆家であり続け、また当用漢字の制定などの国語問題にも携わり、文化財保護法の制定などにも尽力したという。1965年(昭和40年)に文化勲章を授与され、1967年(昭和42年)には文芸家協会名誉会員に推薦、1972年(昭和47年)には日本近代文学館顧問に推挙され、その職に就いている。1974年(昭和49年)1月11日、山本有三は湯河原で生涯を終えている。享年86歳。「濁流」を執筆中だった。