横浜線沿線散歩公園探訪
横浜市港北区太尾町
−大倉山公園−
横浜市大倉山記念館
Visited in April 2006
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
横浜市大倉山記念館
東急東横線大倉山駅の北西側の丘の上、大倉山公園の中に「横浜市大倉山記念館」が建っている。まるでギリシャの神殿を思わせるような堂々として重厚な意匠の建物で、そもそもは実業家大倉邦彦が1932年(昭和7年)に大倉精神文化研究所の本館として建てたものという。建築史的にも貴重なものであるらしく、1991年(平成3年)に横浜市指定有形文化財(建造物)となっている。
横浜市大倉山記念館
財団法人大倉精神研究所のWEBサイトによれば、大倉邦彦は1882年(明治15年)、佐賀県の士族江原家に生まれている。1906年(明治39年)に上海の東亜同文書院商務科を卒業、大倉洋紙店に入社している。大倉洋紙店社長だった大倉文二に見込まれ、1912年(明治45年)に婿養子となり、「大倉邦彦」となった。1920年(大正9年)には大倉洋紙店の社長に就任している。その後、日本の教育界・思想界の乱れを憂えた大倉は教育や思想文化研究に力を注ぐようになったという。東京目黒に富士見幼稚園を、郷里の佐賀には農村工芸学院を開設、1932年(昭和7年)には、この大倉精神文化研究所を開設する。図書の収集にも尽力し、付属図書館も開設している。1961年(昭和36年)に大倉洋紙店の会長に就任、1971年(昭和46年)に89歳で没するまで、私財を投じて研究所を維持し、思想文化研究に貢献したという。

現在の大倉山、すなわち大倉山記念館の建つ丘は、それまでは畑が広がるばかりの名もない丘だったという。その丘を大倉邦彦が購入し、1932年(昭和7年)、大倉精神文化研究所を建てた。丘は「大倉山」と呼ばれるようになり、東京急行電鉄の「太尾駅」も1934年(昭和9年)に「大倉山駅」と改称され、東京急行電鉄が乗降客誘致にために梅林を造って開園した「太尾公園」も「大倉山公園」に改められている。大倉精神文化研究所は精神文化の研究、図書の収集、刊行といった活動を続けたが、経営は苦しかったという。時を経て1981年(昭和56年)、財団法人大倉精神文化研究所は大倉山の敷地を横浜市に売却、研究所本館を寄贈した。これを受けて横浜市は敷地を公園として整備するとともに研究所本館を改修、1984年(昭和59年)、大倉精神文化研究所本館は「横浜市大倉山記念館」として開館している。財団法人大倉精神文化研究所は現在も「大倉山記念館」内で活動を継続し、付属図書館も一般に開放している。

緑濃い丘の上に立つ大倉山記念館は周囲を威圧するような重厚な佇まいだ。傍らに設置された横浜市教育委員会による解説にも「ギリシャの神殿を彷彿とさせる」との旨の記述があるが、まさにそのような印象がある。正面エントランス部の柱をよく見ると上部が太く、下部が細くなっていることに気づく。こうした様式はギリシャに先立つクレタ文明などの建築様式に見られるものという。クレタ文明は紀元前2000年頃から紀元前1500年頃にかけてエーゲ海のクレタ島に栄えた文明で、クノッソス宮殿跡などがよく知られている。そうした建築様式を取り込みながら、細部には日本的な要素も見られ、かなり特異な性格の建築物であるらしい。横浜市指定有形文化財となったのも、そうしたことからのようだ。
横浜市大倉山記念館横浜市大倉山記念館
大倉山記念館、すなわち大倉精神文化研究所本館を設計したのは、明治から昭和初期にかけて活躍した建築家、長野宇平治だ。長野宇平治は1867年(慶応3年)、現在の新潟県に生まれ、1937年(昭和12年)、70歳で亡くなっている。北海道銀行本店や三井銀行神戸支店、横浜正金銀行東京支店など、数々の銀行建築を手がけ、当時、長野はヨーロッパ古典様式の建築家として第一人者であったようだ。長野の手がけた建築物としても、大倉精神文化研究所本館は特異な位置にあるようだ。余談だが、長野が帝国大学工科大学造家学科に学んでいたとき、同級生には建築を志していた夏目漱石がいたという。
横浜市大倉山記念館横浜市大倉山記念館
建物は鉄骨鉄筋コンクリート造りで、中心部に塔屋のある中央館と殿堂(現在はホール)、背面には中庭を囲む回廊(現在はギャラリーとして使用)があり、さらに東館、西館を加えた五棟から成る複雑な構成になっている。現在、東館を大倉精神文化研究所が使用し、付属図書館なども置かれている。付属図書館は一般の利用も可能で、公開図書の貸し出しも行っているという。中央部から西側は一般に開放され、ギャラリーやホールなどとして使用され、もちろん一般の見学も可能だ。
横浜市大倉山記念館横浜市大倉山記念館
建物正面の玄関脇、向かって右手には大きなヒマラヤスギが、左手にはカヤの木が枝を広げて訪れる人を迎えている。正面エントランスから入ってゆくと20メートルを超える高さという吹き抜けの空間に驚く。吹き抜けの最上部は周囲に黄色のステンドグラスが巡らされ、黄金に輝く陽光を館内に導いている。たとえ雨の日でも、しっかりと外の光を館内に入れてくれるという。下から見上げると、遙かな高みの天井が陽光に輝き、見る場所を変えればその表情も変わり、幻想的な美しさを見せる。四方に巡らされたステンドグラスの下、ライオンと鷲の像が、やはり四方に四体ずつ、全部で16の像が吹き抜けの空間を見下ろしている。像は本来は白色だそうだが、黄色のステンドグラスからの光を受けて、これも黄金色に染まっている。このライオンと鷲の像は、どの位置から見上げても必ずどれかが自分を見ているという。探してみると、なるほど確かにそのようだ。訪れたときには探してみるといい。
大倉山記念館、すなわちかつての大倉精神文化研究所本館の建物は、歴史的な建造物として、また長野宇平治設計の作品として、建築に携わる人、建築に興味のある人にとっては外観や内部の造りも含めて見応えのあるものだろう。建築に興味の無い立場でも、このような重厚な佇まいの建物をじっくりと見学するのは楽しい。大倉山記念館は町のシンボルにもなっており、大倉山駅前から西に延びる「大倉山エルム通り」はアテネ市のエルム通りと姉妹提携を結び、通り沿いにはギリシャ風の意匠の建物が並ぶ。これも併せて散策を楽しみたい。

本WEBページに記載の、大倉邦彦の略歴、大倉精神文化研究所本館の沿革などについては、主として財団法人大倉精神文化研究所のWEBサイト(頁末「関連する他のWebサイト」欄のリンク先)に記載された内容に拠っている。同サイトは周辺の事物についても詳しい。併せて参照されたい。
【追記】
東急線大倉山駅周辺はかつては「太尾町」の一部だったが、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて住居表示の変更が行われ、「大倉山(一丁目〜七丁目)」の町名が誕生した。大倉山公園はほぼ「大倉山二丁目」に位置し、「大倉山エルム通り」は「大倉山二丁目」と「大倉山三丁目」の境となっているようだ。以前は「大倉山」は公園や駅の名として存在するのみで、地名としてはあくまで通称だったのだが、この住居表示変更によって名実ともに「大倉山」となった。
横浜市大倉山記念館