横浜市港北区太尾町
−大倉山公園−
横浜市大倉山記念館
Visited in April 2006
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
東急東横線大倉山駅の北西側の丘の上、大倉山公園の中に「横浜市大倉山記念館」が建っている。まるでギリシャの神殿を思わせるような堂々として重厚な意匠の建物で、そもそもは実業家大倉邦彦が1932年(昭和7年)に大倉精神文化研究所の本館として建てたものという。建築史的にも貴重なものであるらしく、1991年(平成3年)に横浜市指定有形文化財(建造物)となっている。
現在の大倉山、すなわち大倉山記念館の建つ丘は、それまでは畑が広がるばかりの名もない丘だったという。その丘を大倉邦彦が購入し、1932年(昭和7年)、大倉精神文化研究所を建てた。丘は「大倉山」と呼ばれるようになり、東京急行電鉄の「太尾駅」も1934年(昭和9年)に「大倉山駅」と改称され、東京急行電鉄が乗降客誘致にために梅林を造って開園した「太尾公園」も「大倉山公園」に改められている。大倉精神文化研究所は精神文化の研究、図書の収集、刊行といった活動を続けたが、経営は苦しかったという。時を経て1981年(昭和56年)、財団法人大倉精神文化研究所は大倉山の敷地を横浜市に売却、研究所本館を寄贈した。これを受けて横浜市は敷地を公園として整備するとともに研究所本館を改修、1984年(昭和59年)、大倉精神文化研究所本館は「横浜市大倉山記念館」として開館している。財団法人大倉精神文化研究所は現在も「大倉山記念館」内で活動を継続し、付属図書館も一般に開放している。
緑濃い丘の上に立つ大倉山記念館は周囲を威圧するような重厚な佇まいだ。傍らに設置された横浜市教育委員会による解説にも「ギリシャの神殿を彷彿とさせる」との旨の記述があるが、まさにそのような印象がある。正面エントランス部の柱をよく見ると上部が太く、下部が細くなっていることに気づく。こうした様式はギリシャに先立つクレタ文明などの建築様式に見られるものという。クレタ文明は紀元前2000年頃から紀元前1500年頃にかけてエーゲ海のクレタ島に栄えた文明で、クノッソス宮殿跡などがよく知られている。そうした建築様式を取り込みながら、細部には日本的な要素も見られ、かなり特異な性格の建築物であるらしい。横浜市指定有形文化財となったのも、そうしたことからのようだ。
大倉山記念館、すなわちかつての大倉精神文化研究所本館の建物は、歴史的な建造物として、また長野宇平治設計の作品として、建築に携わる人、建築に興味のある人にとっては外観や内部の造りも含めて見応えのあるものだろう。建築に興味の無い立場でも、このような重厚な佇まいの建物をじっくりと見学するのは楽しい。大倉山記念館は町のシンボルにもなっており、大倉山駅前から西に延びる「大倉山エルム通り」はアテネ市のエルム通りと姉妹提携を結び、通り沿いにはギリシャ風の意匠の建物が並ぶ。これも併せて散策を楽しみたい。
本WEBページに記載の、大倉邦彦の略歴、大倉精神文化研究所本館の沿革などについては、主として財団法人大倉精神文化研究所のWEBサイト(頁末「関連する他のWebサイト」欄のリンク先)に記載された内容に拠っている。同サイトは周辺の事物についても詳しい。併せて参照されたい。
本WEBページに記載の、大倉邦彦の略歴、大倉精神文化研究所本館の沿革などについては、主として財団法人大倉精神文化研究所のWEBサイト(頁末「関連する他のWebサイト」欄のリンク先)に記載された内容に拠っている。同サイトは周辺の事物についても詳しい。併せて参照されたい。
【追記】
東急線大倉山駅周辺はかつては「太尾町」の一部だったが、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて住居表示の変更が行われ、「大倉山(一丁目〜七丁目)」の町名が誕生した。大倉山公園はほぼ「大倉山二丁目」に位置し、「大倉山エルム通り」は「大倉山二丁目」と「大倉山三丁目」の境となっているようだ。以前は「大倉山」は公園や駅の名として存在するのみで、地名としてはあくまで通称だったのだが、この住居表示変更によって名実ともに「大倉山」となった。