八王子市元横山町
八幡八雲神社
Visited in October 2006
八王子市の中心市街、元横山町の町の南西の端近くに、八幡八雲神社が鎮座している。八王子では元本郷町四丁目に建つ多賀神社が「西の鎮守」、この八幡八雲神社は「東の鎮守」と呼ばれ、人々の崇敬を集めている。
八幡神社は924年(延長2年)、武蔵守小野隆泰が武蔵国多摩群横山荘のこの地に石清水八幡宮を勧請したのが始まりという。隆泰の子、小野義孝はこの横山荘に定住、姓を「横山」に改め、土地を開墾して村落を築いた。この村落が現在の八王子中心市街の始まりという。
ちなみに「武蔵七党」とは言っても七つの武士団が存在していたということではないようで、数多くの武士団があったという程度の意味らしく、後世になって「武蔵七党」の呼称が生まれたようだ。
小野妹子や小野篁らを輩出した小野一族は源氏一族との繋がりが深く、「前九年の役(1051〜1062年)」では義孝の孫、横山経兼が源頼義に従い、あるいは源頼朝の挙兵の時には横山時広、時兼が功を成したという。
源頼朝の死後、執権となって政権を掌握したのは北条氏だが、1213年(建暦3年)5月、対立する和田義盛が北条打倒を企てて挙兵する。いわゆる「和田合戦」である。この時、横山党は和田義盛に加勢するが、敗北、横山氏も和田氏ともども滅亡に近い状況まで衰退してしまった。
この後、横山氏の所領だった横山荘は大江広元の治めるところとなったが、大江広元は翌年の1214年(建保2年)に横山荘の開祖横山義孝を祀って神社を建立する。これが現在も八幡八雲神社境内に祀られている横山神社だ。八幡八雲神社と周辺地域は、こうした横山氏縁の土地であることから「横山党根拠地」として東京都指定旧跡となっている。
八雲神社は916年(延喜16年)、大伴妙行が深沢山(後の八王子城が築かれた山の古称)に牛頭八王子権現を勧請したのが始まりという。天正年間になって深沢山へ北条氏照が城を築き、牛頭八王子権現を氏神として崇敬した。この牛頭八王子権現に因んで北条氏照は城を「八王子城」とし、これが現在の「八王子」の由来となったのだという。
1590年(天正18年)、八王子城落城のとき御神体は川口村黒沢に逃れ、北条の残党の氏神として祀られていたらしいが、1598年(慶長3年)の洪水で流失、八王子新町の北に漂着したところを当地の百姓に拾われ、その後八幡社に遷座、1653年(承応2年)に社殿が建立され、以後八幡八雲神社として人々の信仰を集めたという。
小野義孝が開いた横山荘の村落に北条氏滅亡の後に八王子城の城下町が合わさる形で現在の八王子中心市街の原型が出来上がったのだと考えるならば、小野隆泰が勧請した八幡宮に北条氏が氏神とした八雲社が合祀された八幡八雲神社はなかなか象徴的で面白みを感じるところだ。
そのような立地だから静謐な空気感には乏しく、境内も特筆するほど広いわけではないが、社殿は大きく立派なもので、八王子の「東の鎮守」としての風格と威厳を感じさせてくれる。例祭は7月23日と9月15日に執り行われる。8月第一週末に開催される「八王子まつり」では2002年の第42回から八幡八雲神社の宮神輿の渡御が行われるようになり、祭りにいっそうの華やかさと厳かさを加えてくれている。
たいていの神社というものは深い木々に包まれるようにして建っているものだが、八幡八雲神社は市街地の建物に囲まれている。風情に足りないと思う人もあるかもしれないが、遙かな昔、小野義孝がこの地を開墾して村落を築いた頃から八幡社はこの地の発展を見つめ続けてきたのだ。そして八雲社もまた、北条氏、徳川氏の興亡を見つめ続けてきたのだろう。そのようなことを考えながら参拝の手を合わせるのも感慨深いものがある。
八幡八雲神社へはJR八王子駅からも京王八王子駅からも徒歩で15分ほどだろうか。甲州街道沿いに出ると賑やかな商店街で、古い歴史を感じさせてくれるような店舗も並んでいる。のんびりと散歩を楽しみながら訪れるといい。