町田市相原町〜相模原市緑区相原
境川河畔
(相原)
Visited in November 2014
街の木々もそろそろ紅葉に染まり始めた十一月の半ば、境川に沿って歩こうと思い、西八王子駅から法政大学行きのバスに乗って出かけた。法政大学の付近から、今回は相原駅を目指して歩こう。法政大学のバス停から相原駅まで、町田街道を歩いても4kmを超える距離があるから、境川の河岸を歩けばさらに距離があるだろう。焦らずにのんびりと歩いて行こう。
法政大学行きのバスを終点の法政大学で降りる。土曜日だったからか、バスには通学の学生の姿はほとんどなかった。バス停から「法政通り」へと出て、南へ歩く。法政大学入り口周辺の木々もそろそろ秋の装いだ。紅葉に染まったケヤキやカエデが秋の日を照り返している。「法政通り」の桜並木はすっかり落葉が進んで冬支度だ。「法政通り」沿いの民家の庭先では柿が色づいている。良く晴れた秋空の下、深まってゆく季節の気配を感じながらの散策が楽しい。
法政大学前から「法政通り」を400メートルほど歩くと町田街道との交差点だ。交差点には「法政大学入口」と記されている。この辺りでは町田街道の数十メートル南側を境川が流れている。信号が変わるのを待って町田街道を横断し、まず境川の河岸まで行こう。
「法政大学入口」交差点から南へ道路が延び、町田街道と都道48号線を繋いでいる。境川には風戸(かざと)橋という橋が架かっている。相模原市側の地名「風間」と町田市側の地名「大戸」から、この名となったものという。風戸橋から境川の河岸に沿って、下流側へと辿って行きたい。
以前(2008年)、境川の上流部を歩いたことがあった。その時にはこの辺りを散策の終点にしたから、今回はその続きという意味合いもある。
風戸橋から境川を覗き込むと、河岸の側面に目盛りのようなものが設置されているのに気付く。どうやら水位を測るための目盛りのようだ。目盛りには「水防団待機水位」、「はん濫注意水位」、「避難判断水位」がそれぞれ示されている。周囲を見渡すと水位の監視のための設備が他にも設置されているようだ。監視カメラもあるらしい。撮影される画像は神奈川県のホームページで公開しているとの旨の案内板が設置されている。
普段は川底付近にわずかな流れがあるだけだが、大雨の際には一気に水位が上がることもあるのだろう。こうした監視が災害を防ぐためには大切なことなのだ。
風戸橋から境川に沿って辿って行きたいが、どうやら河岸に沿った道はなさそうだ。町田街道に戻り、東へ歩く。「法政大学入口」交差点から百数十メートル歩くと、町田街道と境川の間に武蔵岡団地がある。この団地内を歩かせてもらおう。団地内の最も南側を辿る道路を進む。ところどころで境川が近づくが、やはり境川の河岸を歩くことはできない。武蔵岡団地はいつ頃造られたものなのだろう。相応の年月を経ていることは確かだ。近年、住民の高齢化が進んでいると聞く。見上げると団地の建物が秋空を背景に日差しを照り返していた。
武蔵岡団地の東端部近く、境川に小さな橋が架かっていた。車両の通行のできない幅の、基本的には人道橋だろう。橋には名標が取り付けられておらず、橋の名がわからなかったのだが、230クラブ出版社刊、久米準著「境川 柏尾川・引地川 を歩こう」によれば、「風間小橋」というそうである。「風間」は相模原市(旧城山町)側の地名だ。対岸の風間地区には集落があるから、そこに暮らす人たちの利便のために架けられた橋なのだろう。いつ頃から存在する橋なのか、今の橋はコンクリート製、欄干部にはガードレールが取り付けられている。
「風間小橋」の100メートルほど下流側に、少し大きな橋が架かっている。「下馬の橋」との名がある。「下馬の橋」とは興味を引かれる名だが、豊臣秀吉の八王子城攻めの時の逸話が残されているようだ。
「下馬の橋」は、つい最近、新しい橋に架け替えられた様子だ。この辺りから下流側の境川は近年になって護岸の再整備が行われており、その改修工事に伴って「下馬の橋」も新しい橋になったものだろう。昔の橋は欄干部が白いガードレールで、幅も狭かったが、新しい橋は茶色の意匠に凝った欄干が取り付けられており、幅も広くなった。
車両の通行も可能な幅だが、通常時は車止めが設置されており、車両の通り抜けはできない。町田市側は団地内の道路だから、通り抜けの車が増えることを避けるためだろう。境川護岸の改修工事は下馬の橋のすぐ上流側で終わっているが、これも順次上流側へと拡大されてゆくのだろう。
下馬の橋から下流側は境川の河岸は改修工事が施され、河岸に沿った道も設けられている。下馬の橋から100メートルほどで、境川の大きく蛇行するところがある。その蛇行部分を残しつつ、蛇行部全体を流路の中に組み込む形で改修工事が行われたようだ。水位が増えた時には蛇行部の内側が遊水池のような役割を果たすのかもしれない。
この蛇行部から下流側へ、しばらくの区間、相模原市側には長閑な田園風景が広がり、のんびりとした河岸散歩が楽しめる。護岸はスロープの形に整備され、川面近くまで降りてゆくこともできる。境川そのものを利用して“親水空間”として整備したものなのだろう。水面を覗き込むと、なかなか澄んだ水が流れており、泳ぎ去る小魚の姿も見ることができた。
下馬の橋から数百メートル下流側に辿った辺り、境川が二つの流路に分かれている。この辺りで境川は大きく南に蛇行しているのだが、その蛇行部の“根元”をショートカットして、真っ直ぐに新しい流路が造られたもののようだ。南に蛇行する旧流路には旧城山町方面から小松川が合流しているために廃することができず、両方の流路が残されているのだろう。
新しい流路には「ゆうやけ橋」という橋が架けられている。「ゆうやけ橋」のすぐ下流側で、蛇行する旧流路が再び合流している。小松川からの流れを合わせて水量も少し増えているようだ。この辺りから境川の右岸は相模原市町屋、左岸は相変わらず町田市相原町だ。河畔には民家が多く建ち並ぶようになる。
ゆうやけ橋から200メートルほどで、川島橋という橋が架かっている。「川島」という地名は川の中州や、複数の河川に囲まれた“島状”の土地の呼び名であることが多いが、蛇行の多い境川にあって、蛇行の内側の土地を「川島」と呼んだものだろうか。前述した「ゆうやけ橋」付近は、旧流路と新流路との囲まれて、かつての蛇行の内側の土地はまさに川に囲まれた島のような状況になってしまった。
川島橋のすぐ北側は町田街道、「東京家政学院入口」交差点が近い。川島橋を過ぎても河岸には小径が沿っていて、川に沿って歩くことができるが、河畔には民家が建ち並んで長閑さはない。
小さな人道橋を過ぎ、川島橋から150メートルほど辿ったところに遊水池があった。この辺りでは境川は比較的真っ直ぐの流路を描いて流れているが、これも改修工事が行われて流路が変更されたものだろう。地図を確かめると町田市と相模原市との市境、すなわち東京都と神奈川県との都県境はくねくねと曲がっている。この曲がりくねった都県境が、かつての境川の流路だろう。遊水池は、かつての蛇行部分を活用して設けられたもののようだ。訪れた時はもちろん遊水池の中に水はなく、草が茂っている。
遊水池から下流側、河畔には民家が建ち並んでいるが、河岸の道は一段低くなっており、周辺の町並みとは切り離された空間を形作っている。河川部が住宅地から下がっていることで、水位が上がった時の対策にもなっているのだろう。河岸の道と川面との間がスロープに整備されているのもいい。歩いていると、アオサギに出会った。近づくと飛び去っていったが、川面近くを悠然と飛翔してゆく姿を見ていると、すぐ脇が民家の建ち並ぶ住宅地であることを忘れる。
遊水池から200メートルほど辿ると、河岸の道が小さく曲がって弧を描く場所があった。ここも蛇行跡なのだろう。その北側は「
相原根岸せせらぎ公園」という小公園になっている。低地になった広場があるが、この広場も遊水地を兼ねているのかもしれない。河岸の道にもベンチが置かれ、桜が植栽されていて公園の一部として整備されているようだ。脇に立つケヤキの姿も印象的だ。
その少し上流部には、川面に飛び石を置いて川を渡ることができるようになっている。両岸のスロープに石段が設けられているから、敢えてこのように整備されたものなのだろう。飛び石を渡ってみる。川の真ん中に立って眺める風景が楽しい。
相原根岸せせらぎ公園から150メートルほどで新田(しんた)橋だ。新田橋の下流側で境川は大きく蛇行している。右岸部、すなわち相模原市側の蛇行部内側は小公園のような佇まいに整備されている。川面近くまで降りてゆくこともでき、ちょっとした“親水公園”の様相だ。蛇行部の内側には狭いながらも川原がある。川原に降りれば、大きく蛇行する境川の流れと河岸の木々とが風情のある景観を見せる。逆光の中に見る木々と新田橋のシルエットが美しい。
新田橋から下流側には川沿いの道はないようだ。ここまで境川の左岸側(町田市側)を歩いてきたが、ここで右岸側(相模原市側)に移って下流へと向かうことにしよう。この辺りが相模原市の町の境だ。西側は相模原市緑区町屋だったが、東側は相模原市緑区相原になる。「相原」という地名が相模原市側にも町田市側にも存在するので、よく知らないと混乱する。
河畔は住宅地だ。その中の、最も境川に近い道を辿って行く。ところどころで境川と道とが寄り添う。境川は巨大な“溝”のような様相で蛇行を繰り返しながら流れている。川の両岸には住宅が建ち並んでいるが、この辺りも改修工事の計画があるのだろうか。
住宅地の中の道が境川から離れ、少し行くと華蔵院(けぞういん)という寺がある。真言宗智山派の寺で、関東八十八ヶ所霊場第62番札所だそうである。相模原佛教會のサイトによれば、1468年(応仁2年)に秀慶上人によって開山された寺だそうだ。かつての神仏習合の名残で、境内には相原天満宮も鎮座している。境内には見事なイチョウの木が立っておりひときわ目を引く。相模原市の保存樹木に指定されているイチョウらしい。
寺の門前には相原森下自治会館が建ち、「相原森下子どもの広場」と名付けられた広場も設けられている。古来、寺院は地域コミュニティの場として機能してきた側面があるが、今もそうした役割を担っているのだろう。
華蔵院前から東へ50メートル辿ると県道506号線に出る。506号線は東京都側では都道506号線となり、八王子市街の八幡町交差点から相模原市緑区原宿の東原宿交差点とを繋いでいる。この506号線を北へ150mほど辿れば境川に架かる二国橋だ。境川を跨いで武蔵国と相模国の二国を繋ぐ橋ということでの二国橋だろうか。東京都道・神奈川県道506号線は八王子市と相模原市とを繋ぐルートとして普段から交通量の多い道路だが、昔から重要な街道筋だったのだろう。
二国橋のすぐ北側には506号線と町田街道との交差点がある。「相原十字路」である。相原十字路の北東側の角には中相原会館が建っているが、会館敷地には桜が多く植えられており、春には美しい景観を見せてくれる。今は秋、二国橋の向こうには落葉の進む桜が見えている。
二国橋の少し南側で、県道506号線から東へ入り込む道がある。その道を東へ辿る。200mほど進むと、道の北側に相原八幡宮が鎮座している。境内に設置された解説板によれば、創建年代はよくわかっていないものの、平安時代中期に小野妹子の子孫である小野孝康が武蔵国の国司として下向した際、京都の石清水八幡宮を勧請して祀ったと言われているらしい。
小野孝康の子孫は後に「武蔵七党」と呼ばれるようになる関東武士団の一つ、「横山党」を結成、国境を越えて相模国にも進出し、この地に本拠を構えて「粟飯原(あいはら)」氏を名乗った。それが「相原」の名の由来という。以来、相原八幡宮は相原の総鎮守として人々の信仰を集める。解説板には「氏子約3000世帯」と記されている。
境内には相模原市の保存樹木に指定されたケヤキやスギ、イチョウなどの大木が大きく葉を茂らせ、古社らしい佇まいを見せている。ちなみに、明治初期の地租改正と地籍簿編成の際、相原八幡宮の境内が「相原1番地」と定められたそうである。
相原八幡宮を後にしてさらに境川を下流へと辿ろう。河岸に沿った道はないので、相模原市側の住宅地の中の道を東へ辿る。ところどころで北へ入り込む小径がある。入り込んでみると小さな橋が境川を跨ぐ。橋はどれも狭い。車の通行できない人道橋から車一台がようやく通れるほどの幅の橋、広いものでも車同士のすれ違いは難しい。どれも昔から境川の両岸を繋いできた橋なのだろう。
境川は深く掘られた大きな溝のような様相で蛇行しながら流れてゆく。相原八幡宮から1km近く、やがて境川の左岸に沿った道に出た。南側には当麻田小学校があり、小学校と境川との間を道が抜けてゆく。
当麻田小学校の少し下流側で、「相原橋」という橋が架かっている。これも決して広い橋ではないが、「相原」の名を冠した橋だということは昔から主要な橋だったのだろう。相原橋を渡って町田街道に出よう。相原橋から町田街道まで100mほどだ。相原橋の左岸側では道路の拡幅工事が行われているようだ。やがて橋も広いものに架け替えられ、広い道路が相模原市側へと抜けて町田街道と国道413号とを繋ぐ計画になっているのだろう。
町田街道に出て東へ辿ろう。町田街道は車の通行も多く、散策の楽しい道とは言い難い。200mと少しで横浜線の踏切だ。
町田街道に設けられた横浜線の踏切は「大戸踏切」という。
「大戸」はかつての相原村の通称だ。大戸踏切の数十メートル東側に「相原駅入口」交差点がある。北へ向かえば相原駅だが、南へ入り込むと吉田橋という橋が境川を跨いでいる。
車一台がようやく通れるほどの幅の狭い橋だ。古そうに見えるが、欄干に「昭和十二年」の文字が見える。危険防止のためだろう、低い欄干には上部に金属製のフェンスが足されている。数年前、この橋を渡って
境川に沿って下流側に辿ったことがあった。この辺りの様子はその頃とほとんど変わっていないようだ。
吉田橋のすぐ南側で西へ入り込む細道がある。その細道を数十メートル進むと横浜線の踏切がある。踏切の名は「相原踏切」だ。相原踏切と大戸踏切、どちらが古いのだろう。相原踏切は狭い踏切だ。「巾員1.8M」と記されている。もちろん一般車両の通行は不可能、歩行者と二輪車、軽車両などしか通行できない。警報機も遮断機も設置された踏切だが、その狭さが独特の興趣を見せる。
踏切横で少し待っていると上り下りの電車が行き過ぎる。何度か電車の姿を見送ったら、そろそろ相原駅へ向かい、今回の散策を終えることにしよう。
法政大学前から相原駅の辺りまで、近くを車で通ることはあっても境川に沿って歩く機会は少ない。改修工事が行われて親水広場のように整備された河岸や、住宅地の中を蛇行して流れる姿など、境川のさまざまな表情を楽しめた散策だった。なるべく境川に沿うようにルートを選んで歩いたので、あまり寄り道ができなかったのが少しばかり残念なところか。次の機会には“寄り道”に重点を置いて歩いてみるのもいいかもしれない。