町田市
高ヶ坂
Visited in October 1998
町田市の町田駅と成瀬駅の中間あたり、高ヶ坂という町がある。石器時代の遺跡があることで有名だが、他はいたって普通の住宅街だ。中央部分を東西に成瀬街道が通り、南側には横浜線が通る。東の端には恩田川が流れ、その河畔はサイクリングロードとして整備されている。その高ヶ坂の町を町田駅から成瀬駅に向かって、寄り道をしながら気ままに歩いてみた。
芹ヶ谷公園を国際版画美術館側から出ると右手に雑木林が見える。「原町田市民の森」だ。目の前の道路を少しばかり町田街道側に戻り、この「原町田市民の森」に入り込んでみた。あまり人の姿は無い。ところどころぬかるんだ路面に気遣いながら進んで、やがて林の南の端から住宅街の中の細道に出た。坂になった小道を降りて行くと、道脇には畑などもあって、栗や柿も実っている。振り返ると市民の森の雑木林の木立が見えた。
熊野神社は「縁結びの神」として「いざなぎの命」と「いざなみの命」を祀っているが、創建の年代についてはよくわかっていないらしい。社殿の裏山に滝があり、熊野那智大社の地形に似ていることからこの地に祀られたのだと案内の碑にある。大正の関東大震災の際に本殿は倒壊したが、昭和51年になって現社殿が再建されたのだそうだ。今ではすっかり住宅に取り囲まれた神社になってしまったが、やはり神域、境内の空気はどこかピンと張りつめているような印象があるから不思議なものだ。
熊野神社を後にしていったん成瀬街道に出て、町田街道側に少し戻ると、高ヶ坂石器時代遺跡の入口を示す石柱が道脇に立っている。案内に従って木立の中に分け入って行くと、屋根に覆われた竪穴式敷石住居跡がある。
大正13年、当時の旧南村小学校長であった山本亀三氏により発見されたもので、大正15年に国の史跡に指定されたと案内板に記してある。ここで見られる遺跡は牢場(ろうば)遺跡といい、「高ヶ坂石器時代遺跡」はここより西方の稲荷山遺跡、北方に位置する八幡平遺跡を含めた三カ所の総称なのだそうだが、他の二カ所の遺跡は埋め戻されており、復元した遺跡を見ることができるのはここだけということだ。
この遺跡は約4000年ほどまえの縄文時代中期の終わり頃のものとされ、当時の一般的な住居跡であろうという。河原石を敷き詰めた住居跡は特徴的なもので、当時の考古学会に大きな影響を与えた発見であったようだ。「敷石住居」という言葉が用いられるようになったのもこの発見以降であるとも聞く。この遺跡を含めた三カ所の遺跡が発見されたことは、かつてこのあたりで集落が営まれていたことを示すものであるということだが、町田は全域にわたってこうした遺跡が多く、その大半は縄文期の遺跡であるという。
遺跡は小屋のような建物に覆われていて、その窓から覗き見ることができるだけだ。こうした遺跡に興味ある人なら一見の価値があると思うが、遺跡周辺はお世辞にも整備が行き届いているとは言えない印象だったのが残念だ。
この遺跡は約4000年ほどまえの縄文時代中期の終わり頃のものとされ、当時の一般的な住居跡であろうという。河原石を敷き詰めた住居跡は特徴的なもので、当時の考古学会に大きな影響を与えた発見であったようだ。「敷石住居」という言葉が用いられるようになったのもこの発見以降であるとも聞く。この遺跡を含めた三カ所の遺跡が発見されたことは、かつてこのあたりで集落が営まれていたことを示すものであるということだが、町田は全域にわたってこうした遺跡が多く、その大半は縄文期の遺跡であるという。
遺跡は小屋のような建物に覆われていて、その窓から覗き見ることができるだけだ。こうした遺跡に興味ある人なら一見の価値があると思うが、遺跡周辺はお世辞にも整備が行き届いているとは言えない印象だったのが残念だ。
しばらく川面を眺めて過ごした後、細い路地に入り込んで南へと進んでみた。横浜線の線路へ向かって緩やかな登りの傾斜で住宅が並んでいる。ところどころに畑が残っていたりする。横浜線の線路脇まで辿り着くと、雑木林の残る公園があった。松葉公園だ。この辺りから北を見ると高ヶ坂の町が一望できる。松葉公園の東側はもう南成瀬だ。今回の高ヶ坂散策はこれで終わることにして、線路脇の道を歩いて成瀬駅に向かったのだった。
今回は芹ヶ谷公園を経由してのコースを選んでみたが、町田駅から町田天満宮を経て成瀬街道に沿って石器時代遺跡へ向かうコースも良い。自然が好きな人なら高ヶ坂の住宅街から「かしの木山自然公園」まで足を伸ばしても後悔しないだろう。町田駅から成瀬駅まで、気ままにコースを選んで楽しんでみたい。