横浜市港北区
小机町
Visited in October 1998
横浜市港北区小机町の町名となっている「小机」という地名はかなり古いもののようで、1200年代にはすでに「武蔵国小机郷」の名で呼ばれていたことが鎌倉幕府が編纂した史書に見ることができるのだという。北側に鶴見川が流れる小机は近世まで広大な水田地帯であったようだ。明治41年に現在の横浜線の前身である「横浜鉄道」が開通した時にすでに「小机」がその駅のひとつであったことからも、「小机」が要衝の地であったことを窺い知ることができる。小机城址をはじめとして、雲松院や泉谷寺など、歴史の跡も残る小机の町を歩いてみた。
横浜線小机駅を南側に出ると、駅前を交通量の多い道路が通っている。横浜上麻生道路という。川崎市麻生区の上麻生から市ヶ尾、小机、六角橋などを通って横浜市神奈川区の横浜線東神奈川駅前に至る道路で、全線を通して交通量は多い。特に小机近辺は新横浜元石川線ができるまで渋滞が避けられなかった。現在でも行き交う車の量は多く、流れも滞りがちだ。
その横浜上麻生道路の両脇にアーケードの商店街が並んでいる。古くから栄えていた土地らしく、個人商店が軒を並べる姿は整然とした新興の街のショッピングモールとは明らかに感触が異なっている。今ではどこの街角にも溢れるコンビニエンスストアも、ここでは意外に少ない。
小机駅前の商店街の間の小さな路地のような細道の脇に「曹洞宗雲松院」の石碑を見つけて入って行くと、道の突き当たりに曹洞宗雲松院がある。小机が小田原北条市の勢力下となった当時、初代の小机城代となった笠原信為が父信隆の追善のために自らが開基となって建立したものだ。
ひととおり雲松院を見学した跡、再び横浜上麻生道路に戻り、西に向かう。道脇の太子堂などに立ち寄りつつさらに進み、「小机辻」の交差点から小机城址を目指して右に折れる。金剛寺の横を通り、城山踏切で横浜線を越えると、すぐに小さな十字路があり、よく見ると隅の方に「小机城址市民の森」を示す標識が立っている。「小机城址市民の森」はかつての小机城の遺構の残る雑木林の丘を「市民の森」として住民の憩いの場として整備したものだ。鬱蒼とした雑木林や竹林は魅力的なものだが、少々第三京浜の車の音が気になった。散策路に沿ってしばらく「小机城址市民の森」の中を歩いた後、また横浜上麻生道路に戻って西に向かう。
第三京浜をくぐった先の交差点はその名も「泉谷寺」交差点だ。これを左に折れると緩やかな登りの坂道だが、これは「泉谷寺坂」という。「泉谷寺坂」をしばらく歩くと、やがて右手に泉谷寺への桜並木の参道が現れる。泉谷寺は1500年代に創建された名刹だ。住宅街のすぐ近くでありながら境内は緑に包まれてとても静かな印象だ。横浜市の古木名木に指定された樹木がいくつかあって、その中のひとつのサルスベリが花を咲かせていた。他にもイチョウの大木や山門の周囲のモミジやアジサイ、参道の桜並木など、それらの季節には魅力的な景観が楽しめそうだ。
泉谷寺を後にしたら「泉谷寺坂」をさらに南へ登る。登り切ったところが「菅田団地入口」という交差点で、その先は下り坂となって、そこはすでに神奈川区菅田町だ。その交差点を左に折れる。この道はちょうど港北区と神奈川区の区境にあたり、右手には菅田町の菅田団地の建物が並んでいる。しばらく歩くと菅田団地の端らしく、道路は細い分かれ道になった。左に進む方を選ぶとすぐに小さな公園があった。小机町第三公園だ。この公園を回り込むように少し進むと畑の中に入り込むような小道が右に分かれていた。興味を覚えてその道に進んでみる。
一応は地図を携えて歩いているのだが、こんな時のルート選びは勘だよりだ。すぐに土井之谷橋という橋で第三京浜を越えた。この時の勘は大正解、このあたりは尾根の上に当たるらしく、四方に眺望が開けていて、なかなか素晴らしい眺めだった。昔は雑木林の山だったのだろうか。今では狭い道路の両脇に畑が広がる中、住宅も並んでいる。道なりに進んで行くと、やがて細い十字路があって、交差する道路は尾根の上から一気に下っている。ここでも勘頼り、地図を確かめつつ左に折れる。これでおそらく小机辻のあたりに戻れるはずだ。
狭く急な坂道を降りて進んで行くとお寺があった。本法寺だ。木々に囲まれた山門の堂々とした姿に惹かれて立ち寄ってみた。龍を彫り上げた見事な手水鉢が目を引く。「石造龍吐手水鉢」として平成6年に横浜市の有形文化財にも指定された石造建造物である。二頭の龍が鉢に身体を絡ませ、大きく頭をもたげた龍の口から水を吐く構造になっているのだという。この龍の絡みつく手水鉢、巨石から一石彫成したものであるという。明治35年の作で、近代石造物として意匠性に優れた貴重なものであるとのことだ。素人目にも龍の表情や動きを感じさせる雰囲気にはつい引き込まれてしまった。ところどころ欠けた部分があり、完全には原型をとどめていないのが残念なところか。
本法寺を出てしばらく歩くと何となく周囲が賑やかになってきた。と思ったら目の前に横浜上麻生道路が見えている。今回の散策もそろそろ終わりにしてもよい時刻だった。
その横浜上麻生道路の両脇にアーケードの商店街が並んでいる。古くから栄えていた土地らしく、個人商店が軒を並べる姿は整然とした新興の街のショッピングモールとは明らかに感触が異なっている。今ではどこの街角にも溢れるコンビニエンスストアも、ここでは意外に少ない。
小机駅前の商店街の間の小さな路地のような細道の脇に「曹洞宗雲松院」の石碑を見つけて入って行くと、道の突き当たりに曹洞宗雲松院がある。小机が小田原北条市の勢力下となった当時、初代の小机城代となった笠原信為が父信隆の追善のために自らが開基となって建立したものだ。
ひととおり雲松院を見学した跡、再び横浜上麻生道路に戻り、西に向かう。道脇の太子堂などに立ち寄りつつさらに進み、「小机辻」の交差点から小机城址を目指して右に折れる。金剛寺の横を通り、城山踏切で横浜線を越えると、すぐに小さな十字路があり、よく見ると隅の方に「小机城址市民の森」を示す標識が立っている。「小机城址市民の森」はかつての小机城の遺構の残る雑木林の丘を「市民の森」として住民の憩いの場として整備したものだ。鬱蒼とした雑木林や竹林は魅力的なものだが、少々第三京浜の車の音が気になった。散策路に沿ってしばらく「小机城址市民の森」の中を歩いた後、また横浜上麻生道路に戻って西に向かう。
第三京浜をくぐった先の交差点はその名も「泉谷寺」交差点だ。これを左に折れると緩やかな登りの坂道だが、これは「泉谷寺坂」という。「泉谷寺坂」をしばらく歩くと、やがて右手に泉谷寺への桜並木の参道が現れる。泉谷寺は1500年代に創建された名刹だ。住宅街のすぐ近くでありながら境内は緑に包まれてとても静かな印象だ。横浜市の古木名木に指定された樹木がいくつかあって、その中のひとつのサルスベリが花を咲かせていた。他にもイチョウの大木や山門の周囲のモミジやアジサイ、参道の桜並木など、それらの季節には魅力的な景観が楽しめそうだ。
泉谷寺を後にしたら「泉谷寺坂」をさらに南へ登る。登り切ったところが「菅田団地入口」という交差点で、その先は下り坂となって、そこはすでに神奈川区菅田町だ。その交差点を左に折れる。この道はちょうど港北区と神奈川区の区境にあたり、右手には菅田町の菅田団地の建物が並んでいる。しばらく歩くと菅田団地の端らしく、道路は細い分かれ道になった。左に進む方を選ぶとすぐに小さな公園があった。小机町第三公園だ。この公園を回り込むように少し進むと畑の中に入り込むような小道が右に分かれていた。興味を覚えてその道に進んでみる。
一応は地図を携えて歩いているのだが、こんな時のルート選びは勘だよりだ。すぐに土井之谷橋という橋で第三京浜を越えた。この時の勘は大正解、このあたりは尾根の上に当たるらしく、四方に眺望が開けていて、なかなか素晴らしい眺めだった。昔は雑木林の山だったのだろうか。今では狭い道路の両脇に畑が広がる中、住宅も並んでいる。道なりに進んで行くと、やがて細い十字路があって、交差する道路は尾根の上から一気に下っている。ここでも勘頼り、地図を確かめつつ左に折れる。これでおそらく小机辻のあたりに戻れるはずだ。
狭く急な坂道を降りて進んで行くとお寺があった。本法寺だ。木々に囲まれた山門の堂々とした姿に惹かれて立ち寄ってみた。龍を彫り上げた見事な手水鉢が目を引く。「石造龍吐手水鉢」として平成6年に横浜市の有形文化財にも指定された石造建造物である。二頭の龍が鉢に身体を絡ませ、大きく頭をもたげた龍の口から水を吐く構造になっているのだという。この龍の絡みつく手水鉢、巨石から一石彫成したものであるという。明治35年の作で、近代石造物として意匠性に優れた貴重なものであるとのことだ。素人目にも龍の表情や動きを感じさせる雰囲気にはつい引き込まれてしまった。ところどころ欠けた部分があり、完全には原型をとどめていないのが残念なところか。
本法寺を出てしばらく歩くと何となく周囲が賑やかになってきた。と思ったら目の前に横浜上麻生道路が見えている。今回の散策もそろそろ終わりにしてもよい時刻だった。
小机は歴史の古い町で、雲松院や泉谷寺などの寺社や小机城址などの旧跡を巡るだけでもかなりの時間を費やしてしまう。夏であれば鶴見川河畔の散策も楽しいだろう。泉谷寺をはじめとして季節毎の表情を見せてくれる場所が多く、四季折々に訪ねてみてもその度に楽しめるだろう。