町田市
三輪町
Visited in October 2001
町田市三輪町は興味深い立地だ。南を横浜市青葉区に接し、北東側では川崎市麻生区、北西側では川崎市麻生区の飛び地である岡上に隣接、北部の頂点部分で町田市能ヶ谷町に接している。その接する部分の距離はわずか300メートルほどだという。実質的には飛び地と言ってもいい。そのため行政上は東京都町田市でありながら、さまざまな場面で神奈川県川崎市と同等に扱われることも少なくない。住民はさまざまな不便もあるらしい。三輪町の西側の一部は整然とした住宅街として造成され、現在では「三輪緑山」として独立した町名となっているが、周囲はのどかな風景が広がり、特に東南側の寺家町に接するあたりでは里山と谷戸の自然も残っていて散策コースとしても知られている。その三輪町を歩いてみた。
三輪町へは小田急線柿生駅や鶴川駅から訪れるのがよいだろう。鶴川駅から鶴見川に沿って東に歩き、三輪町の北端部へと向かうのも楽しい。鶴川駅は町田市だが、駅の南側から鶴見川に沿って東へ行くとすぐに川崎市麻生区の飛び地である岡上に入り、そのまま進むとやがて真光寺川との合流点の辺りから三輪町になる。
三輪町に入るとすぐに「精進場橋」、「しょうじんばばし」と読む。南へ辿ると高蔵寺の傍らを抜けて三輪緑山の住宅街に至る道路で、バス通りでもあり、比較的交通量も多い。その道を南へ向かってもよいのだが、鶴見川南岸に設けられた「鶴見川自転車道路」をそのまま東に辿ってみる。河畔に「精進場橋子どもの遊び場」という小さな公園があり、川沿いのフェンス際にコスモスが咲いている。鶴見川自転車道路はその名のように自転車の通行を前提としたもののようだが、それほど幅は広くない。時折地元の人が自転車で行き過ぎる。しばらく歩くと「子の神橋」。これは「ねのかみばし」と読む。子の神橋を過ぎてすぐ地図を便りに南へ入り込んでみる。
日蓮宗妙福寺は、1391年(明徳2年)に日億上人によって開かれた寺であると、妙福寺由来を記した案内板に記されている。寺は小高い丘の上にあり、約四千坪という境内は木立に囲まれながらも広々として開放的な印象がある。端正な境内には本堂をはじめとして祖師堂、鐘楼門などの歴史的な建造物が建ち並んでいる。
山門は「妙福寺高麗門」として町田市の有形文化財に指定されているものだ。彫刻なども施されていない門は意外なほど簡素なものだが、その簡素な佇まいがかえって良い風情を醸している。1854年(嘉永7年)の建立と寺伝にはあるらしいが、様式細部からの推定はできないと解説板に書かれている。
山門をくぐって参道を辿ると壮麗な鐘楼門に至る。その名が示すように上層部に鐘楼を備えた門で、棟札から1746年(延享3年)の建立であることがわかっているそうだ。なかなか珍しい形式の建造物であるらしく、町田市域では唯一の鐘楼門であるそうで、これも町田市指定有形文化財になっている。「絵様刳形(えようくりかた)は江戸後期の性質を示している」と解説板にある。鐘は1683年(天和3年)に鋳造されたが第二次大戦で供出、現在の鐘は人間国宝の鐘匠香取正彦氏(1988年没)によって1963年(昭和38年)に鋳造されたものであると「妙福寺由来」に記されている。
鐘楼門を入ると、正面に本堂、左手奥に祖師堂が建っている。祖師堂は1762年(寛文12年)に現大田区の池上本門寺から祖師日蓮像、厨子とともに贈与され、翌年に移築されたものだという。桃山時代の様式を伝える祖師堂は、池上本門寺の遺構を今に残すものとしても貴重であるらしい。1961年(昭和36年)に東京都の有形文化財に指定され、1969年(昭和44年)には解体修理が行われたものだという。
本堂はその様式から江戸時代後期に再建されたものであろうという。解説板には1786年(天明2年)の再建だろうと記されている。障子は1845年(弘化2年)に新造、正面の向拝は後年の増築、屋根も本来は茅葺であったものを近年に銅板葺きに改めたものだが、全体に改造は少ないのだと同じ解説板にある。江戸末期の方丈形式本堂の代表例であるらしく、これも町田市指定有形文化財になっているものだ。「妙福寺由来」の言葉を借りれば「荘厳かつ重厚な伽藍」は、確かに古建築としての重みを感じさせるようでもある。
妙福寺は深い木立に囲まれた山寺とは異なり、明るく開かれたような印象を持っている。訪れたのはよく晴れた日だったが、青く澄んだ秋空の下、陽光を受けて並ぶ古い時代の建造物の佇まいが印象的だった。
山門をくぐって参道を辿ると壮麗な鐘楼門に至る。その名が示すように上層部に鐘楼を備えた門で、棟札から1746年(延享3年)の建立であることがわかっているそうだ。なかなか珍しい形式の建造物であるらしく、町田市域では唯一の鐘楼門であるそうで、これも町田市指定有形文化財になっている。「絵様刳形(えようくりかた)は江戸後期の性質を示している」と解説板にある。鐘は1683年(天和3年)に鋳造されたが第二次大戦で供出、現在の鐘は人間国宝の鐘匠香取正彦氏(1988年没)によって1963年(昭和38年)に鋳造されたものであると「妙福寺由来」に記されている。
本堂はその様式から江戸時代後期に再建されたものであろうという。解説板には1786年(天明2年)の再建だろうと記されている。障子は1845年(弘化2年)に新造、正面の向拝は後年の増築、屋根も本来は茅葺であったものを近年に銅板葺きに改めたものだが、全体に改造は少ないのだと同じ解説板にある。江戸末期の方丈形式本堂の代表例であるらしく、これも町田市指定有形文化財になっているものだ。「妙福寺由来」の言葉を借りれば「荘厳かつ重厚な伽藍」は、確かに古建築としての重みを感じさせるようでもある。
妙福寺は深い木立に囲まれた山寺とは異なり、明るく開かれたような印象を持っている。訪れたのはよく晴れた日だったが、青く澄んだ秋空の下、陽光を受けて並ぶ古い時代の建造物の佇まいが印象的だった。
妙福寺の前からさらに南へと辿ると小さな十字路があり、右手西方への道は鶴川厚生病院や鶴川女子短期大学へ向かう旨の案内板がある。この十字路を南へ延びる谷戸へと入り込む道がある。車一台がようやく通れるほどの幅の道だが、その道を辿った先が三輪町の中で最も昔ながらの里山と谷戸の風情が感じられるところだと言ってよいだろう。
道は谷戸の東側に沿って奥へと辿り、道の東側は雑木林の丘陵が迫っている。道の西側には小規模ながら水田もあり、稲を干す作業に追われる農家の人の姿がある。民家の庭先には柿の木が植えられ、熟した実の色が秋の青空に映えて美しい。道脇には小さな流れが沿っている。水は澄んで、秋の陽射しを受けてきらめいている。周囲に点在する民家はさすがに昔のままの建物を残しているわけではないが、古くからの土蔵らしいものも視界の端に捉えることができる。この一角はかつて人々の生活と共にあった里山と谷戸の景観というものを今なお残す貴重な場所だと言えるかもしれない。そこに暮らす人々にはそれなりにいろいろと苦労や不便もあるのだろうと思うが、町の暮らしに慣れてしまった人々にとっては郷愁を誘うような心安らぐ風景であることだろう。
谷戸の風景を楽しみながら歩くと、道はやがて上り坂となり、目の前の丘陵に吸い込まれるように辿って、見事な切り通しを抜ける。切り通しを抜けて尾根の向こう側へと出て、さらに辿れば寺家ふるさと村の風景が広がっている。
谷戸の風景を楽しみながら歩くと、道はやがて上り坂となり、目の前の丘陵に吸い込まれるように辿って、見事な切り通しを抜ける。切り通しを抜けて尾根の向こう側へと出て、さらに辿れば寺家ふるさと村の風景が広がっている。
柿生駅や鶴川駅から歩くと三輪町に至るまでにはそれなりに距離があり、三輪の散策に焦点を絞りたいのであればバス路線を利用して鶴川駅と三輪町を往復してもよいだろう。三輪町は寺社や史跡が多く残り、それらを訪ねての散策も楽しい。花好きの人にはシャクナゲが有名な高蔵寺も外せないところだろう。今回はとりあえず北端に当たる部分から三輪緑山の東側を抜けて寺家へと至るルートを歩いてみた。里山散策の好きな人であれば、妙福寺の傍らから寺家へ至る谷戸部分の散策を中心に据えて、寺家の散策とともに楽しむとよいだろう。