八王子市本郷町〜大横町〜元横山町
大横町
Visited in February 2021
八王子市の中心市街の一角、「八幡町」交差点で国道20号との重複区間を離れて北へ延びる国道16号に沿うように「大横町」という町がある。春まだ浅い二月中旬、大横町の辺りを歩いてみた。
多くの場合、こうした大きな道路は町の境になっているものだ。道路の東側は○○町、西側は□□町といった具合にだ。しかし八王子市の中心市街では町は国道16号や国道20号を中心として、その両脇に広がっている。例えば、横山町も八日町も八幡町も八木町も国道20号の南北に跨がっており、南町や寺町は国道16号の東西に跨がっている。江戸時代から宿場町として賑わった町だから、町は街道に沿って(その両脇に)できた。その名残だ。大横町もまた国道16号の東西に跨がって広がっている。南側では東側は八日町に、西側は八幡町に接し、北の端は浅川だ。
八王子エルシィの駐車場の横を通り過ぎると、国道16号の両脇が大横町になる。東側にはスーパーが建ち、西側には警視庁第九方面合同庁舎がある。少し行くと「いちょうホール西」交差点、「いちょうホール通り」が交差する。この交差点から300mほど東へ行ったところに「いちょうホール(正式名称は「八王子市芸術文化会館」)が建っている。
「ほんごう公園」は小さな街区公園に過ぎないが、恐竜の形をしたコンクリート製の遊具が設置されているのがおもしろい。公園の広場中央部に設置された滑り台は、外観がステゴサウルスをデフォルメしたような形状だ。尻尾側から上り、大きく開けた口に滑り降りてくる。特に3〜5歳くらいの子どもたちに人気のようだ。その横にはさらにステゴサウルスに似せた遊具がある。こちらは遊具というよりオブジェに近いかもしれない。
この交差点の北東側の角に面白い看板がある。青地の大きな看板に白抜きの文字で「わたしより、信号を見て。」と書かれている。思わずニヤリとしてしまうようなコピーである。これは地元の不動産店による看板で、この他にもいくつものバリエーションがある。それぞれ設置された場所に応じたコピーが記されている。八王子のちょっとした“名物”である。
1664年(寛文4年)、藤沢遊行寺の独朗上人が修行中にこの地で亡くなり、その遺言に従って遊行寺が創建したものという。聲阿彌稲荷社が宝樹寺という寺の境内地に建っているのは神仏習合の名残か。宝樹寺は時宗の寺で、藤沢の遊行寺は時宗の総本山だからそうした関連があるのだろう。
聲阿彌稲荷社の拝殿横に建つ小さな社は瘡守稲荷である。八王子宿の芸妓や娼妓たちが病になったとき、腕を患部に当てて治癒を祈願し、腕を奉納したのだそうである。
浅川橋の橋上にはバス停がある。「浅川橋」バス停だ。なぜバス停が橋の真ん中付近にあるのか。橋を渡った北側、中野上町の橋の袂にあった方が便利なのではないだろうかとも思うのだが、いろいろと理由があるのだろう。
中野上町へも散策の足を延ばしてみたいが、それはまた次の機会にしよう。今回は浅川橋からまた大横町に戻ろう。
その立て看板に誘われるように、路地に入り込んでみる。路地は車がようやく通れるほどの幅しかない。右手(南側)は極楽寺の地所でブロック塀が続いている。左手(北側)は住宅地だ。
八王子の町は1945年(昭和20年)8月2日未明に空襲を受けて町の大部分が消失した(世に言う「八王子空襲」である)が、この付近は消失を免れたらしい。そのお陰で、昔ながらの細い路地が残っているのかもしれない。
路地は家々の間に挟まれるようにして続き、やがて今度は左(東)に屈曲して、少し広い道に抜け出る。その道を右手(南)に向かうとすぐに十字路だ。十字路を右(西)へ折れて大横町へ戻ろう。道は極楽寺の南側を辿って国道16号へ抜け出る。
極楽寺の墓所には長田作左衛門、塩野適斎、玉田院の墓がある。長田作左衛門は八王子発展の基礎となった横山宿を造った人物だ。塩野適斎は千人同心のひとりで「新編武蔵風土記稿」の編纂に加わった他、「桑都日記」や「筑井県行記」などを著した。玉田院は武田信玄の五男である仁科五郎盛信の娘、すなわち松姫の姪である。これらの墓はいずれも東京都指定文化財だ。興味のある人はお参りしていくといい。
端正に整備された境内では白梅が咲き始めていた。風はまだ冷たいが、春が確実に近づいている。極楽寺に参拝した後はのんびりと国道16号を南へ辿って、大横町散策を終えることにしたい。
大横町の辺りは車で通りかかることも多く、よく知っている町だが、こうしてカメラを持って散策したことはなかった。国道16号から脇に逸れてみるといろいろと発見もあって楽しい散策だった。次に機会には大横町西側の本郷町や平岡町、東側の本町や元横山町、あるいは浅川を渡った北側の中野上町の辺りも歩いてみたい。