横浜市都筑区折本町〜池辺町
折本町から池辺町
Visited in October 2002
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)

十月の半ば、秋晴れの日に横浜市都筑区を歩いた。新横浜で横浜線から横浜市営地下鉄に乗り換え、仲町台で降り、南へ下って横浜線鴨居駅あたりを目指そうと思ったのだった。昔はこのあたりを車で走り抜ける機会も多かったのだが、最近は訪れる機会もあまりなく、まして歩いてみたことはなかった。かつて車の運転席から見ていた農村の風景が今はどうなっているのか、少々興味をそそられての散策だった。



坂を下りきると長福寺の傍らへと出る。目の前には広い道路が通っている。第三京浜の港北IC前を経て新横浜へと抜ける新横浜元石川線だ。交通量の多い道路の歩道を少し南へ歩き、「長福寺南側」交差点から西へと入り込むと、周囲には折本町の農業地帯が広がる。道脇の農家の佇まいなどを見ていると、すぐ北側にはニュータウンの新興住宅街が広がっているのが信じられないほどだ。

この道路は新横浜元石川線と中原街道とを繋いでいるが、車の通行はそれほど多くはない。バス路線も通っているが、バスの便もあまり多くはない。辺りはのどかな農村風景だ。昔、車を走らせながら見た風景とそれほど変わっていないように思える。こうした風景が昔と変わらずに在るということにわけもなくほっとするのは何故だろうかと思う。


しばらく歩くと道脇の農地の隅に「折本農業専用地区」を示す案内板があった。横浜市緑政局によるもので、「港北ニュータウン計画の一環として、優良な農地を計画的に保全し、農業の振興をはかる」とある。このあたりは北には港北ニュータウンがあり、南は緑産業道路沿いの工場地帯があり、その間に挟まれたような立地なのだが、「開発から取り残された」というものではなく、「開発を免れた」というものでもなく、農業の振興地域として積極的な存在意義を持っているということなのだろう。確かに歩きながら周囲の様子を見ていると、農地の規模も大きく、「残された農地で細々と農業を続けている」という印象ではない。



この道路は新横浜元石川線と中原街道とを繋いでいるが、車の通行はそれほど多くはない。バス路線も通っているが、バスの便もあまり多くはない。辺りはのどかな農村風景だ。昔、車を走らせながら見た風景とそれほど変わっていないように思える。こうした風景が昔と変わらずに在るということにわけもなくほっとするのは何故だろうかと思う。


しばらく歩くと道脇の農地の隅に「折本農業専用地区」を示す案内板があった。横浜市緑政局によるもので、「港北ニュータウン計画の一環として、優良な農地を計画的に保全し、農業の振興をはかる」とある。このあたりは北には港北ニュータウンがあり、南は緑産業道路沿いの工場地帯があり、その間に挟まれたような立地なのだが、「開発から取り残された」というものではなく、「開発を免れた」というものでもなく、農業の振興地域として積極的な存在意義を持っているということなのだろう。確かに歩きながら周囲の様子を見ていると、農地の規模も大きく、「残された農地で細々と農業を続けている」という印象ではない。



源東院を後にして東方町を西へ辿る。余談だが、源東院の前は道路が屈曲していて車で通行するときにはすいぶん気を遣ったものだったが、その屈曲は今も昔のまま、これからもこのままかもしれない。スピードを落として行き過ぎる車を見ながら、ふと懐かしい感じがした。道路を時折車が行き過ぎてゆくが、車が途切れると辺りはいたって静かだ。道脇の畑地と林を写真に捉えようとカメラを向けていると農作業の人がこちらを見ておられた。軽く頭を下げると、会釈を返して下さった。地元の人にとっては何の変哲もない日常的な風景なのだろうから、いったい何の写真を撮っているのかと不思議に思われたのかもしれない。

しばらく歩くと天満宮がある。東方総鎮守とある。道路に面した鳥居の傍らに立派なイチョウがある。横浜市の名木古木に指定されている樹木だ。境内に設置された御由緒に依れば、創立は不詳だということだが、北方の天神山にあったものを現在地に遷座したのが慶長年間(1596〜1615年)のことであるというから、なかなか古い。1828年(文政11年)に本社再建、1909年(明治42年)に八幡社、神明社、愛宕社、御獄社、稲荷社を合祀、1980年(昭和55年)に改築、とある。鳥居をくぐって石段を登ると、丘の上に社殿がある。社殿の背後に少し木立があるが、周囲は開けていてずいぶんと明るい印象だ。



少し広い道路へ出て、西へわずかに進むと、せせらぎに沿った舗道が南へ延びている。「浄念寺川せせらぎ緑道」という名がある。随所にベンチなども置かれた緑道は木々の緑に覆われて穏やかな空間だ。周囲には大小の工場が並ぶ地域だが、そこで働く人々の憩いの場であるらしく、ベンチで休む人の姿も見かけた。せせらぎは清流というわけではないが、なかなかきれいな水が流れており、小魚の泳ぐ姿もあった。


「津田中学校入口」交差点には北方から広い道路が延びてきている。市ヶ尾で横浜上麻生道路から分岐してきた道路で、交差点を越えてさらに延びる計画のように見える。この道路が緑産業道路と直結されれば、交通の流れもずいぶんと変わるのではないだろうか。


建設中の橋の上流側で鶴見川の堤防道へと上がり、下流側へと辿る。堤防道の脇には「河口から18.5km」を示す距離標が立てられている。対岸には高層の住宅の建物が並んでいる。少し歩くと、対岸の鴨居駅周辺とを繋ぐ鴨池橋が見え、そこを通って行き来する人の姿が多くなる。その人たちに混じって鴨池橋を渡る。

鴨池橋の鴨居側の袂に鶴見川に関する案内板が立てられており、流域の地図や鶴見川で見られる野鳥などの解説がある。三年前の秋に小机付近から鴨居駅までを歩いた時にはこの案内板に気付かなかったのだが、単に気付かなかっただけなのか、その後に設置されたものなのか。案内板には「源流まで24.4km、河口まで18.1km」とある。
鶴見川の河川敷にはのんびりと腰を下ろしている人の姿がある。川面にはカワウの姿もあった。さらに歩きたい気もするが、すでに秋は深まりつつあり、午後も早い時刻から日差しは傾いている。今回は駅の近くのコーヒーショップでひと休みした後に鴨居駅から帰路を辿ることにしたい。



鶴見川の河川敷にはのんびりと腰を下ろしている人の姿がある。川面にはカワウの姿もあった。さらに歩きたい気もするが、すでに秋は深まりつつあり、午後も早い時刻から日差しは傾いている。今回は駅の近くのコーヒーショップでひと休みした後に鴨居駅から帰路を辿ることにしたい。

港北ニュータウンの南端部から鶴見川まで、距離はそれほど長くないはずだが、行く先々ですいぶんと風景の印象が変わるルートだったという気がする。整然としたニュータウンの駅、昔ながらの農村の面影、少々殺伐とした工業地帯とその中に設けられた緑道、次々に造られてゆく新しい道路や橋、それぞれに興味深いものを見ることのできた散策だった。池辺町の北側部分もゆっくりと歩いてみたいが、それもまた次の機会にしたい。
【追記】
池辺町の「出崎橋」交差点から南へ、鶴見川とJR横浜線とを一跨ぎにする橋梁は「鴨池大橋」といい、2003年(平成15年)10月に開通した。佐江戸町の日本電気横浜事業場はこの後、同地から撤退、跡地には「ららぽーと横浜」が2007年(平成19年)3月に開業した。