大内は江戸時代に会津と下野(しもつけ、現在の栃木県に相当する)とを繋ぐ下野街道(会津西街道)の宿場として栄えた。江戸時代に入って徳川幕府は江戸と各地を繋ぐ五街道と、それに付属する脇往還を設けたが、下野街道もそうした「脇往還」のひとつで、会津藩の参勤交代にも使われた街道である。大内は会津の若松から約四里半(約17km)、大内の宿は宿泊のできない休憩用の宿、いわゆる「間宿(あいのしゅく)」のひとつであったらしい。
1884年(明治17年)、当時の福島県令であった三島通庸の主導により、いわゆる「会津三方道路」が竣工する。このうちの会津から日光方面へと向かうルートが、大川(阿賀川ともいう、阿賀野川の本川上流部)沿いに新たに整備される。現在の国道121号に当たるルートだ。これによって、下野街道のうち、若松から関山宿を経て大内宿、倉谷宿と辿るルートが新ルートから外れることになってしまった。この変化は大きく、大内も関山も倉谷も、かつて栄えた宿場町から一山村へと衰退してゆくことになる。