兼六園は当初から現在の形に作庭されたものではなく、歴代の加賀藩主によってさまざまに変遷を経てきたという。
兼六園の礎となる庭園を築いたのは五代藩主綱紀(つなのり)で、金沢城と堀を挟んで面する傾斜地に別荘を建てて周囲を庭園としたのが始まりなのだそうだ。別荘が建てられたのは、現在金沢城公園に面して10軒ほどの茶屋が並ぶ辺り、兼六園西側の「蓮池庭」が庭園部分で、接待や迎賓の施設として使われていたという。別荘が建てられた場所は、1601年(慶長6年)に徳川秀忠の娘である珠姫が輿入れしたとき、江戸から付いてきた伴の者たちのための長屋が造られていたが、珠姫が没して伴の者が江戸に戻ると跡地は藩の役所などに使われていた。綱紀がそれを城内に戻し、別荘を建てたということらしい。蓮池庭は1759年(宝暦9年)に大火で一部が焼失、その後、十一代藩主治脩(はるなが)が翠滝と夕顔亭、内橋亭を造営したという。
「蓮池庭」東南側の平坦な台地部分は千歳台と呼ばれ、これも歴代藩主によってさまざまに利用されてきたらしい。1792年(寛政4年)には治脩が千歳台に藩校「明倫堂」と「経武館」を建てたが、十二代藩主斉広(なりなが)が藩校を移転させ、1822年(文政5年)、跡地に自分の隠居所「竹沢御殿」を建てた。斉広の依頼によって奥州白河藩主松平定信がこれを「兼六園」と命名したいう。「六勝」を兼ね備えた名園という意味での命名だったようだ。