安曇野の土地は河川によって運ばれた土砂が堆積した、扇状地と呼ばれる地形だ。北アルプスから流れる河川が形成したいくつもの扇状地が重なり合って複合扇状地を成している。扇状地の地質を構成するのは砂礫で、河川の水は地中に染み込んで伏流水となって流れてゆく。扇端部に当たる東側では豊富な湧水に恵まれるが、扇央部に当たる西側は水にも土地の栄養分にも乏しく、農地には適していない。それを克服するために安曇野に開削されたのが拾ケ堰と呼ばれる用水路だ。拾ケ堰は「じっかせぎ」と読む。疏水、すなわち人工的に開削された水路のことを、この地方では「堰(せぎ)」と呼ぶ。
拾ケ堰が開削されたのは江戸時代末期、1816年(文化13年)のことという。奈良井川(現在の松本市島内)から取水し、梓川を横切り、安曇野を貫くように流れて烏川に注ぐまで、その総延長は約15kmに及ぶ。拾ケ堰は正式には「拾ヶ村組合堰」という。この用水によって吉野村、成相町村、新田町村、上堀金村、下堀金村、柏原村、矢原村、等々力町村、保高町村、保高村の十ヶ村が灌漑されることから、その名がある。
この用水が計画されたのは1812年(文化9年)のことらしい。扇状地の地質のために荒れ野だった土地を灌漑し、水田とすることを目的にしていたことは言うまでもない。計画の立案と初期の測量は柏原村の中島輪兵衛と下堀金村の平倉六郎右衛門が協力して行い、これに保高組大庄屋の等々力孫右衛門とその養子の等々力孫一郎、吉野村庄屋の岡村勘兵衛、等々力町村庄屋の白澤民右衛門、柏原村庄屋の関与一右衛門といった人々が実務面で協力、彼らを中心に松本藩の役人や多くの地元民が力を注いだ。1816年(文化13年)2月11日(旧暦)に着工した拾ケ堰はわずか三ヶ月後の5月10日に竣工したという。工事参加延人員67,112人、総工費816両だったそうである。
拾ケ堰が開削されたのは江戸時代末期、1816年(文化13年)のことという。奈良井川(現在の松本市島内)から取水し、梓川を横切り、安曇野を貫くように流れて烏川に注ぐまで、その総延長は約15kmに及ぶ。拾ケ堰は正式には「拾ヶ村組合堰」という。この用水によって吉野村、成相町村、新田町村、上堀金村、下堀金村、柏原村、矢原村、等々力町村、保高町村、保高村の十ヶ村が灌漑されることから、その名がある。
この用水が計画されたのは1812年(文化9年)のことらしい。扇状地の地質のために荒れ野だった土地を灌漑し、水田とすることを目的にしていたことは言うまでもない。計画の立案と初期の測量は柏原村の中島輪兵衛と下堀金村の平倉六郎右衛門が協力して行い、これに保高組大庄屋の等々力孫右衛門とその養子の等々力孫一郎、吉野村庄屋の岡村勘兵衛、等々力町村庄屋の白澤民右衛門、柏原村庄屋の関与一右衛門といった人々が実務面で協力、彼らを中心に松本藩の役人や多くの地元民が力を注いだ。1816年(文化13年)2月11日(旧暦)に着工した拾ケ堰はわずか三ヶ月後の5月10日に竣工したという。工事参加延人員67,112人、総工費816両だったそうである。