北國街道の宿場として海野宿が開かれたのは1625年(寛永2年)のことだそうだ。北國街道は江戸幕府が整備した脇往還のひとつで、追分宿で中山道から岐れ、善光寺を経て越後へ至っていた。北陸の諸大名が参勤交代に使った街道であり、佐渡で採れた金を運ぶ道でもあった。そしてまた善光寺参りの道でもあり、江戸からの往来も多かったという。
海野宿は東西に置かれた枡形の間が約六町(650メートル)、街道のほぼ中央には用水が引かれ、両脇には旅籠屋や伝馬屋敷が建ち並んでいた。1742年(寛保2年)の大洪水では隣接する田中宿が被災したため本陣が海野宿に移され、その後、海野宿はさらに賑わったという。ちなみに1742年(寛保2年)の大洪水とは本州中央部全体を襲った大水害のことで、江戸も大きな被害を受けた。いわゆる「寛保二年の江戸洪水」である。
海野宿は東西に置かれた枡形の間が約六町(650メートル)、街道のほぼ中央には用水が引かれ、両脇には旅籠屋や伝馬屋敷が建ち並んでいた。1742年(寛保2年)の大洪水では隣接する田中宿が被災したため本陣が海野宿に移され、その後、海野宿はさらに賑わったという。ちなみに1742年(寛保2年)の大洪水とは本州中央部全体を襲った大水害のことで、江戸も大きな被害を受けた。いわゆる「寛保二年の江戸洪水」である。