上田城は、そもそもは戦国武将として名高い真田昌幸が築城した平城だ。上田城趾のある場所は南に千曲川の流れを見下ろす台地になっており、それが城の守りの上でも重要だったのだろう。
戦国時代の初期、真田氏は真田郷(現在の上田市北東部、かつての真田町の辺り)を治める小豪族だったようだ。やがて小県(現在の上田市、東御市、青木村、長和町の辺り)に侵攻した甲斐の武田信玄に仕え、この地での勢力基盤を築いてゆく。しかし真田幸隆の三男だった昌幸が家督を継いだ後、武田氏が滅亡する。主君を失った昌幸は上田城を築城、城下町を整備し、勢力の維持を図ったが、沼田城の所有を巡って徳川氏と対立、徳川氏に攻められることになる。1585年(天正13年)、徳川氏は約七千の兵を上田城に差し向ける。対する真田氏は二千ほどの兵だったが徳川の攻撃を退け、上田城を守り抜く。いわゆる「第一次上田合戦」である。これによって真田の名は広く世に知られることになった。
その頃、天下の覇権を手中にしていたのは豊臣秀吉だ。真田昌幸は秀吉の臣下となり、秀吉の命で徳川とも和解、嫡男信幸(後の信之)と家康の養女小松姫との婚姻も執り行われた。秀吉の死後、豊臣政権内にあった対立の構図は激化、ついに1600年(慶長5年)、石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍との戦に発展する。いわゆる「関ヶ原の戦い」である。この時、真田氏は昌幸と次男信繁(幸村)が西軍、長男信幸は東軍と分かれることになった。昌幸と信繁は数千の軍勢で徳川秀忠率いる約三万の軍勢を上田城で迎え撃ち、敗退させている。これがいわゆる「第二次上田合戦」である。しかしその勝利も虚しく、「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利に終わる。
「関ヶ原の戦い」後、昌幸と信繁は蟄居を命じられ、昌幸の所領は東軍についた信之(「関ヶ原の戦い」後に信幸から改名)に継承されることになる。1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」と1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」でも信之は徳川方につき、信繁(幸村)は豊臣方についている。信繁(幸村)は「大坂夏の陣」で討死したが、このときの勇猛な戦いぶりは広く知られている。
真田信之は上田城の城主として上田藩を治めたが、1622年(元和8年)、松代藩に移封となり、上田藩には小諸藩から仙石忠政が入封した。実は真田昌幸が築いた上田城は「関ヶ原の戦い」の後、徳川の治世になっていったん廃城となっている。城郭は取り壊され、堀も埋められたらしい。その上田城を復興したのが仙石忠政である。現在の上田城趾に残る上田城の遺構は、すべてこの時に再建されたものという。1706年(宝永3年)、その仙石氏も出石藩へと移封、上田藩には松平忠周が入封する。松平氏の治世は長く続き、やがて明治維新を迎えることになる。1871年(明治4年)の廃藩置県によって上田藩は上田県となったが、同年、長野県に吸収されている。松代藩に移封となった真田氏も明治維新を迎えるまで松代藩を治めたという。