長野県上田市は戦国武将真田氏縁の土地として知られる。市内中心部近くには上田城跡があり、上田城跡公園として整備されている。晴天に恵まれた九月の初旬、上田城跡公園を訪ねた。
上田城跡公園
長野県上田市、市街地の西側の一角に上田城跡公園という公園がある。その名が示すようにかつての上田城の遺構を整備して造られた公園だ。野球場や陸上競技場、テニスコート、児童遊園地なども併設し、市民の憩いの場として親しまれる公園だが、園内には上田城の遺構である石垣や復元された櫓門などもあって“観光名所”としての役割も担い、多くの観光客を迎えている。
上田城跡公園
上田城跡公園
上田城跡公園
上田城跡公園
上田城跡公園
上田城跡公園
上田城は、そもそもは戦国武将として名高い真田昌幸が築城した平城だ。上田城趾のある場所は南に千曲川の流れを見下ろす台地になっており、それが城の守りの上でも重要だったのだろう。

戦国時代の初期、真田氏は真田郷(現在の上田市北東部、かつての真田町の辺り)を治める小豪族だったようだ。やがて小県(現在の上田市、東御市、青木村、長和町の辺り)に侵攻した甲斐の武田信玄に仕え、この地での勢力基盤を築いてゆく。しかし真田幸隆の三男だった昌幸が家督を継いだ後、武田氏が滅亡する。主君を失った昌幸は上田城を築城、城下町を整備し、勢力の維持を図ったが、沼田城の所有を巡って徳川氏と対立、徳川氏に攻められることになる。1585年(天正13年)、徳川氏は約七千の兵を上田城に差し向ける。対する真田氏は二千ほどの兵だったが徳川の攻撃を退け、上田城を守り抜く。いわゆる「第一次上田合戦」である。これによって真田の名は広く世に知られることになった。

その頃、天下の覇権を手中にしていたのは豊臣秀吉だ。真田昌幸は秀吉の臣下となり、秀吉の命で徳川とも和解、嫡男信幸(後の信之)と家康の養女小松姫との婚姻も執り行われた。秀吉の死後、豊臣政権内にあった対立の構図は激化、ついに1600年(慶長5年)、石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍との戦に発展する。いわゆる「関ヶ原の戦い」である。この時、真田氏は昌幸と次男信繁(幸村)が西軍、長男信幸は東軍と分かれることになった。昌幸と信繁は数千の軍勢で徳川秀忠率いる約三万の軍勢を上田城で迎え撃ち、敗退させている。これがいわゆる「第二次上田合戦」である。しかしその勝利も虚しく、「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利に終わる。

「関ヶ原の戦い」後、昌幸と信繁は蟄居を命じられ、昌幸の所領は東軍についた信之(「関ヶ原の戦い」後に信幸から改名)に継承されることになる。1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」と1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」でも信之は徳川方につき、信繁(幸村)は豊臣方についている。信繁(幸村)は「大坂夏の陣」で討死したが、このときの勇猛な戦いぶりは広く知られている。

真田信之は上田城の城主として上田藩を治めたが、1622年(元和8年)、松代藩に移封となり、上田藩には小諸藩から仙石忠政が入封した。実は真田昌幸が築いた上田城は「関ヶ原の戦い」の後、徳川の治世になっていったん廃城となっている。城郭は取り壊され、堀も埋められたらしい。その上田城を復興したのが仙石忠政である。現在の上田城趾に残る上田城の遺構は、すべてこの時に再建されたものという。1706年(宝永3年)、その仙石氏も出石藩へと移封、上田藩には松平忠周が入封する。松平氏の治世は長く続き、やがて明治維新を迎えることになる。1871年(明治4年)の廃藩置県によって上田藩は上田県となったが、同年、長野県に吸収されている。松代藩に移封となった真田氏も明治維新を迎えるまで松代藩を治めたという。
上田城跡公園
上田城跡公園
明治初期、政府は全国の城の民間払い下げを布告したが、この時、丸山平八郎直養という人物が上田城本丸付近を一括して買い取り、遊園地として庶民に開放したという。その後、丸山平八郎直養の息子である直義が松平神社(現在の真田神社)建設用地と神社付属の公園として寄付、一帯は上田公園と呼ばれて親しまれたという。1925年(大正14年)、“上田公園”は永久に公園として使用することを条件に神社から上田市へ無償譲渡された。その後、公園内には児童遊園地や野球場、陸上競技場などが造られた。戦前から昭和30年代頃までは動物園もあったそうだ。現在でも公園内には陸上競技場や野球場、テニスコート、体育館、弓道場、プール、児童遊園地、市民会館、市立博物館、山本鼎記念館などが併設され、史跡公園であると同時に上田市の文化、スポーツ施設を集めた総合公園として成立している。
上田城跡公園
上田城跡公園
上田城跡公園は東側に位置する二の丸橋がメインエントランスと考えてよいだろう。道を挟んだ東側には上田市観光会館があり、観光客のほとんどは二の丸橋から上田城跡公園へと足を踏み入れるに違いない。観光に訪れた立場なら、二の丸橋から市民会館前を通り抜けて東虎口櫓門へと進み、さらに本丸跡、真田神社、西櫓などを見ておきたい。本丸を囲む堀の佇まいなども見応えのあるものだ。有料だが東虎口櫓門は内部を見学することもできる。内部にはさまざまな資料も展示されているので、訪れたときは見学しておきたい。そうした歴史の遺構を見学した後はのんびりと園内を散策するのも楽しい。園内には花木園やケヤキ並木などもあり、充分に公園散策を楽しむことができる。春は桜が見事という。桜の季節を選んで訪れるのもよいものだろう。
二の丸橋下のプラットホーム跡
二の丸橋から下の堀跡を覗き込むと、何やら駅のプラットホームのようなものが見える。これは紛れもないプラットホームらしい。この堀跡には1927年(昭和2年)に上田温泉電軌北東線の線路が敷設され、二の丸橋下には公会堂下駅が設けられた。駅名は1948年(昭和23年)に公園前駅と改称され、1972年(昭和47年)に電車が廃止されるまで花見客などで賑わったという。かつて電車が走った堀跡が、今はケヤキ並木の遊歩道に姿を変えたというわけだ。
上田城跡公園/二の丸橋下のプラットホーム跡
東虎口櫓門
二の丸橋から市民会館前を通って西へ進んでゆくと、堂々とした姿の城郭が見えてくる。上田城跡の象徴とも言える東虎口櫓門だ。両脇に北櫓と南櫓が建ち、それを櫓門が繋いでいる。これらは明治初期に取り壊されたものを復元したものという。北櫓と南櫓は明治の廃城のときに市内に移築されて残っており、それを1943年(昭和18年)から1949年(昭和24年)にかけて現在地へ再移築したものという。櫓門は1877年(明治10年)頃に撮影された写真から寸法などを割り出し、1994年(平成6年)に復元されたものだそうだ。

東虎口櫓門は入館料を支払えば内部を見学することができる(市立博物館、山本鼎記念館との共通券になっている)。訪れたときにはぜひ入館し、櫓からの眺めを楽しんでおきたい。狭間から下を覗いて、敵を迎え撃つ兵の気分を想像してみるのも一興かもしれない。内部にはさまざまな資料も展示されているので、それらも見学しておきたい。
上田城跡公園/東虎口櫓門
上田城跡公園/東虎口櫓門
上田城跡公園/東虎口櫓門
上田城跡公園/東虎口櫓門
真田神社
東虎口櫓門を抜けると真正面には真田神社が鎮座している。真田神社は真田昌幸、信繁(幸村)親子を主祭神とし、仙石氏、松平氏の歴代藩主を祀る。

明治初期に上田城の土地建物が民間に払い下げられた際、丸山平八郎直養という商人が本丸の土地と櫓を一括して買い取った。その息子の平八郎直義が土地を寄付、そこに建てられたのが真田神社だ(当初は松平神社という名だったようだ)。丸山平八郎直養が土地と櫓を買い取ったのも、そこへ神社が建てられたのも、すべては上田城の遺構の荒廃を防ごうという志からだったようだ。真田昌幸、真田信繁(幸村)という武将への、そして上田城に対する上田の人々の深い思いが窺える。訪れたときにはぜひ参拝してゆこう。
上田城跡公園/真田神社
上田城跡公園/真田神社
真田井戸
真田神社の社殿と事務所との間を抜けると社殿の横手に真田井戸と呼ばれる遺構がある。この井戸、抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦に通じていたそうだ。敵に包囲されても抜け穴を通じて城兵の出入りも可能で、兵糧を運び入れるのにも不自由がなかったという。井戸には今は蓋がしてあり、中を覗き込むことはできない。
上田城跡公園/真田井戸
西櫓
真田神社の横を抜けて西奥へと進んでゆくと西櫓だ。明治初期に上田城の土地建物が払い下げられた際、ほとんどの建物が解体されたが、唯一、この西櫓だけが解体されずに残ったという。したがって、現在の上田城趾に於いて、この西櫓だけが江戸時代初期に仙石氏が建てた姿のまま残っている建物ということになる。この西櫓も明治初期に丸山平八郎直養が買い取ったが、1889年(明治22年)に最後の藩主である松平忠礼に無償で返還されたそうだ。昭和初期には松平家の宝物を展示する博物館として使用されていたそうだが、現在は立ち入ることはできず、外観を見学できるだけになっている。なお西櫓という呼称は北櫓と南櫓が復元された後につけられたもので、江戸時代には特に名は無かったそうである。
上田城跡公園/西櫓
上田城跡公園/西櫓
参考情報
上田城跡公園は開園時間も定められておらず、入園料も不要だが、東虎口櫓門は12月から3月まで休館、内部を見学するには「観覧券」を購入する必要がある。「観覧券」は市立博物館と山本鼎記念館との共通券になっている。観覧料金等の詳細については上田市立博物館サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

また上田城の歴史については上田市公式サイト内「上田城の歴史」(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)に詳しい。

交通
上田城跡公園は上田市中心部の市街地の一角に位置している。上田市へは長野新幹線やしなの鉄道の上田駅を利用するとよい。上田駅から上田城跡公園まで徒歩で十数分といったところだ。

車で訪れる際には上信越自動車道を利用するのがわかりやすく便利だ。上田菅平ICで降りて国道144号を西進すれば上田市街に入って行ける。

公園内に上田城跡駐車場が設けられている。上田城跡公園東側の観光会館の駐車場も利用できる。あるいは駅前の市営駐車場や市街地に点在する民間駐車場を利用してもいい。駐車場の場所については上田市観光情報サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

飲食
上田城跡公園内にはレストランなどはなく、周辺にもあまり多くないようだ。駅北側の市街地中心部には飲食店が点在しているので、食事は駅周辺で楽しむのがよいだろう。駅西側(線路の南側)に建つ大型ショッピングモール「Ario上田」内のレストランを利用するのも一案だ。

上田城跡公園は広々とした公園で、お弁当を広げるスペースを見つけることも可能だ。陽気の良い季節であれば、駅周辺でテイクアウトのものを買っておき、公園でアウトドアランチを楽しむのも一興かもしれない。

周辺
上田城跡公園を訪ねた後は城下町の名残を探して上田市の市街地散策を楽しむのがお勧めだ。旧街道の面影が残る柳町や常田などを訪ねてみるといい。上田高校の敷地は江戸時代の藩主の居館があったところで、今も土塀や堀が残っている。これも見ておきたい。

市街地からは少し離れるが、国道144号を北へ向かえば真田氏が上田城を築城する以前の居館跡がある。真田氏の歴史に興味のある人なら訪ねてみたい。

上田市中心部から南西へ10kmほどの山裾には別所温泉がある。別所温泉は歴史の古い温泉で、有名な北向観音をはじめ、さまざまな古刹が点在し「信州の鎌倉」とも呼ばれるところだ。車でも近いが、鉄道ファンなら上田電鉄別所線を利用してみたいところだろう。

町歩きの好きな人なら上田市東側の東御市に位置する海野宿を訪ねてみるのがお勧めだ。旧北國街道の宿場町で国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたところだ。

また、上田はアニメ映画「サマーウォーズ」の舞台になったところとしても知られる。「サマーウォーズ」を見たことのある人なら劇中に登場した風景を訪ねてみるのも楽しい。
城跡探訪
長野散歩