埼玉県久喜市の西部、住所表記に「菖蒲町」が含まれている地域は、かつて埼玉県南埼玉郡菖蒲町だったところだ。2010年(平成22年)に久喜市と北葛飾郡栗橋町と鷲宮町、南埼玉郡菖蒲町の一市三町が合併して新しい久喜市が発足した。
菖蒲町には1400年代の中期から1500年代に終わり頃にかけて菖蒲城という城があった。菖蒲城は古河公方足利成氏が金田式部則綱に命じて1456年(康正2年)に築城させたものらしい。「菖蒲の節句(5月5日)」に竣工したので菖蒲城と命名したとも言われる。金田は菖蒲佐々木氏とも呼ばれ、北条氏に属していたようで、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐の後に菖蒲城も廃城となっている。
現在の菖蒲城趾には菖蒲城趾であることを示した石碑が建てられており、松などの木々が植栽され、四阿も置かれて風情のある景観が演出されてはいるが、菖蒲城の遺構はまったく残っていない。菖蒲城趾には、今は「菖蒲城趾あやめ園」の名で知られる花菖蒲園が設けられており、花菖蒲が花期を迎える6月には観賞に訪れる人たちで賑わっている。
菖蒲町には1400年代の中期から1500年代に終わり頃にかけて菖蒲城という城があった。菖蒲城は古河公方足利成氏が金田式部則綱に命じて1456年(康正2年)に築城させたものらしい。「菖蒲の節句(5月5日)」に竣工したので菖蒲城と命名したとも言われる。金田は菖蒲佐々木氏とも呼ばれ、北条氏に属していたようで、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐の後に菖蒲城も廃城となっている。
現在の菖蒲城趾には菖蒲城趾であることを示した石碑が建てられており、松などの木々が植栽され、四阿も置かれて風情のある景観が演出されてはいるが、菖蒲城の遺構はまったく残っていない。菖蒲城趾には、今は「菖蒲城趾あやめ園」の名で知られる花菖蒲園が設けられており、花菖蒲が花期を迎える6月には観賞に訪れる人たちで賑わっている。