下田市街の南側に、木々の茂る山が岬となって海に張り出している。この岬にはかつて下田城が築かれていたといい、「下田城趾」として下田市指定文化財になっており、今は「下田公園」という公園になっている。
下田城は1500年代の終わり、豊臣秀吉と小田原北条氏との攻防の舞台となった。天下統一を進めて関東に勢力を広げようとする豊臣勢に対して、小田原の北条氏は下田城を防衛のための重要な拠点と考えたのだ。1590年(天正18年)3月、一万人を超える規模の豊臣方水軍が清水湊に集結した。同年4月には豊臣水軍の主力が石廊崎沖を回って下田沖に到着したが、三方を海に囲まれた下田城は攻めにくく、籠城戦の様相となっていた。しかし豊臣軍一万四千に対して下田籠城軍はわずかに六百、4月下旬にはついに開城、籠城戦は50日に及んだという。
下田城は1500年代の終わり、豊臣秀吉と小田原北条氏との攻防の舞台となった。天下統一を進めて関東に勢力を広げようとする豊臣勢に対して、小田原の北条氏は下田城を防衛のための重要な拠点と考えたのだ。1590年(天正18年)3月、一万人を超える規模の豊臣方水軍が清水湊に集結した。同年4月には豊臣水軍の主力が石廊崎沖を回って下田沖に到着したが、三方を海に囲まれた下田城は攻めにくく、籠城戦の様相となっていた。しかし豊臣軍一万四千に対して下田籠城軍はわずかに六百、4月下旬にはついに開城、籠城戦は50日に及んだという。