川崎市麻生区上麻生〜白山〜王禅寺東
新百合ヶ丘から王禅寺東
Visited in October 2007
十月のよく晴れた日、川崎市麻生区を歩いた。小田急線新百合ヶ丘駅を降りて南へ辿り、住宅街の中を巡りながら王禅寺ふるさと公園の辺りを目指そうと思ったのだった。
「新」の文字が意味しているように比較的新しい駅で、開業したのは1974年(昭和49年)のことだ。小田急多摩線の開業に伴って新設された駅で、ここから多摩ニュータウン方面へと多摩線が分岐してゆく。かなり大きな駅で、「急行」や「準急」も停車する。
駅周辺も整然と商業施設が建ち並び、いかにもニュータウンの駅という感じがある。駅の周辺に殺風景な造成地が広がっていた開発途上の頃のことを覚えているが、すでに当時の名残もない。
やがて舗道を横切る緑道があった。緑道は東西に延びていてこの舗道と交差しているようだ。緑道を東へ辿ると檜山公園という公園があるようだが、そちらは次の機会に訪ねることにしよう。
緑道には「こやのさ緑道」との名がある。「こやのさ」とは何だろうかと思っていると、名の由来を解説した案内板があった。この辺りは昔は細長い沢だったらしく、周辺の山には村落共有の茅場があり、共有材などを管理する小屋があったために「こやのさ」と呼ばれるようになったとのことだ。「小屋の沢」が転じたものだろうか。ニュータウンに姿を変える前の風景を想像しながら、「こやのさ緑道」を西へ向かう。
この辺りは起伏に富んだ地形で、坂道が多い。住宅の隙間から見え隠れする木々を目指して坂道を上ってゆくと、公園があった。鶴亀松公園という名だ。名の由来を解説した案内板があった。それによれば、ここはかつて鎌倉街道の尾根道で、そびえ立つ「鶴松」と地を這う「亀松」とが相生していたらしいが、残念ながら昭和の初期に台風で倒れてしまった。その鶴亀松を偲んで公園の名を鶴亀松公園としたものという。公園は広場を木々が取り囲み、落ち着いた佇まいだ。大型の複合遊具が置かれており、近所の子どもたちが遊んでいる。
道は今度は上り坂だ。道脇には白山西緑地があり、ヒマラヤスギやシイノキなどが茂っている。坂を上りきると丘を越えて今度は下り坂だ。右手に公園がある。「むじなが池公園」という名がなかなか素敵だ。むじなが池公園は、その名が示すように池を抱えた公園で、鬱蒼とした木立に覆われた中に沢が流れ、この辺りが住宅地に変貌する以前の風景を偲ばせる。
やがて白山神社へと出た。加賀(現在の石川県)の白山神社の末社として勧請されたもので、祭神は白山姫命(しらやまひめのみこと)、真福寺谷戸の鎮守で、王禅寺村の鎮守五社のひとつであるとの解説が設けられている。社殿は1851年(嘉永4年)に再建されたものという。神社の前は広々としているが、鳥居の向こうに狭く急な石段が上っており、一段高くなって社殿が建っている。散策の無事を願ってお参りしてゆこう。
「化粧面谷(けしょうめんやと)公園」という名が何やら古い言い伝えがありそうだ。公園内に「化粧面谷戸公園とお江与の方」という解説板が設けてあった。1762年(宝暦12年)の絵図によれば王禅寺村中央部の尾根道の東側に「けわいめん谷」という小字が記されており、現在では「化粧面」と表記され、「けしょうめん」、あるいは「きわめん」と発音されているという。江戸時代初期に二代将軍徳川秀忠の夫人であったお江与の方の御化粧領(嫁入りの際に与えられた領地)であったことからこの名があるらしい。
今回は王禅寺ふるさと公園西側のバス通りを南へ辿ろう。少し歩くと琴平神社がある。残念ながら本殿改築中とのことだった。琴平神社は王禅寺村の名主だった志村文之丞が1826年(文政9年)に讃岐の金刀比羅宮の分霊を勧請して神明社を合祀したものだと、解説板が設けてある。現在は「柿生のこんぴらさん」と呼ばれて信仰されているという。琴平神社にお参りするのもまた次の機会にしよう。
緑濃い風景を楽しみながら歩いていると「石橋」交差点に至る。道を真っ直ぐに南へ辿れば早野で、ここものどかな風景の楽しめるところだが、今回の散策はそろそろこの辺りで終わりにして、「王禅寺口」バス停で柿生駅行きのバスを待つことにしたい。
今回の散策は特に目指すルートもなく、小田急線新百合ヶ丘駅を降りて王禅寺ふるさと公園の付近まで気ままに歩いてみようという予定だった。整然とした新興の住宅街の佇まいや、その中に残る古い時代の名残を楽しみながらの散策だった。次の機会には別の季節を選んで新百合ヶ丘駅周辺の公園を丹念に訪ねたり、今回訪ねそびれた場所を巡ってみたい。