相模原市緑区谷ヶ原〜城山
都井沢から津久井湖へ
Visited in February 2022

津久井湖の東岸、相模川の河岸は相模原市緑区城山地区だ。南から城山一丁目、二丁目、三丁目、四丁目と並ぶ。その東側は谷ヶ原だ。都井沢から津久井湖岸へ辿り、津久井湖城山公園の「水の苑地」辺りまで歩いてみたい。二月の初旬、空気は冷たく、雲の広がる天気だが、雲の間から青空も覗き、散策にはまずまずの日和だ。

「谷ヶ原」という地名に興味を覚える。「谷」と「原」、相反するような地形が一つの地名になったのは何故なのだろう。「谷ヶ原」は昔からの古い地名のようだが、名の由来についてはよくわからない。いずれにもしても石器時代の遺跡があるということはかなり昔から人々の暮らしがあったところなのだろう。
以前、相模川自然の村からこの辺りまでを歩いたことがある。今回はその際に足を延ばさなかった辺りへと歩を進めてみたい。

「都井沢」交差点から北へ100mほど行くと信号の無い小さな十字路がある。この十字路の北西側の角に「旧川尻字都井沢の地」と記した標柱が建っている。「川尻」の地名は現在の相模原市緑区の北東部に分散して残っている状態だが、かつては津久井郡城山町北部の大部分を占めていた地域で、事実上、津久井郡城山町の中心部だった。現在、「城山○丁目」と住所表示されている辺りは、当時は「津久井郡城山町川尻字都井沢」という地域だった。この標柱はそのことを示しているわけだ。

十字路から150mほど進んだところ、道の右手にお地蔵様を祀った祠が建っている。昔からここで往来の人々を見守ってこられたのだろう。祠にはお供え物があり、今も地域の人たちによって大切に守られていることが窺える。

お地蔵様から200mほど進んだところの右手、民家の敷地の隅と思われるところに「尻無沢」と記された地名標柱が建っている。標柱には地名の簡単な解説が添えられている。「尻無沢(しりなしさわ)」はこの辺りの古い地名で、山清水の流れが畑に吸われて“尻”の無い沢だったことに由来するという。それが訛って「ヒナシサワ」と呼ばれるようになったが、明治以降は「都井沢」と呼ばれるようになったのだという。「ヒナシサワ」から「都井沢」に変化した経緯も知りたいと思うが、もはやそうしたことを知る人もいないに違いない。土地の名の変遷というものには興味が尽きない。

道脇には昔からの農家らしい家々が建ち、家屋に畑地が隣接していたり、美しい竹林があったりする。用具置き場らしい小屋の様子も良い風情だ。そのような風景を楽しみながら歩く。途中、野菜の無人販売所もあった。土の着いたままの人参などが並べられていたが、今買ってしまうとこの先の荷物になってしまうので今回は諦めることにしよう。

この日はそれほど交通量は多くないようだったが、それでもひっきりなしに車が通り過ぎてゆく。長閑な風景が広がる土地を抉って近代的な道路が延びている光景に、ある種のダイナミズムのようなものを感じてしまう。いろいろなことを考えながら、しばらく圏央道を走り過ぎる車を眺めた。

神奈川県道513号鳥屋川尻線は国道413号の城山高校西側の交差点から北上し、津久井湖東部の北岸を回って三井大橋を渡り、山間部を南下して宮ヶ瀬湖北側の鳥屋(とや)に至る。城山から三井大橋にかけての津久井湖岸を辿る区間の交通量は少なく、見ていてもほとんど通る車がない。

道脇の農家の塀際に水仙の植えられているところがあった。この家の方が植えられたのだろう。冬の日を浴びた水仙の花が美しい。思わず何枚も写真を撮らせていただいた。
やがて少し広い道に出た。この道の南側は城山二丁目、道を西へ辿っていけば津久井湖城山公園「水の苑地」だ。

苑地を一回りした後は国道413号を渡って城山ダムを見おろす展望台にも足を延ばしてみる。ダムの威容をひととき眺めたら、そろそろ帰路を辿ることにしたい。帰りは「城山高校前」バス停でバスを待つのがよいかもしれない。

以前から津久井湖東岸の辺りをのんびりと歩いてみたいと思っていた。津久井湖城山公園「水の苑地」は何度も訪ねたことがあるが、周辺に足を延ばしてみたことはなかったからだ。今回、ようやくその機会を設けることができた。城山一丁目には足を延ばせなかったが、それはまた次の機会にしたい。


