横浜線沿線散歩公園探訪
横浜市中区元町
−元町公園−
ジェラール水屋敷
May 2003
ジェラール水屋敷
元町公園中央の低地部分、プールと「ウォーターガーデン」として整備されているあたりは、明治の初めにフランス人実業家ジェラールが船舶給水業を営んだ場所として知られている。湧き水を簡易水道で引き、外国船に飲料水として売った。その品質の良さで好評だったらしい。ジェラールはまた同地で西洋瓦の製造も行っている。ジェラールのこれらの施設を、人々は「ジェラールの水屋敷」と呼んだという。
アルフレッド・ジェラールはフランス北東部のランスの生まれで、生家はパン屋を営んでいたという。1864年(元治元年)、二十代のときに来日、開港間もない横浜で商売を興した。当初は食料品の船舶供給業を営んでいたらしいが、時代が明治に移る頃(1870年頃)には山手の湧き水に着目して船舶給水業を営むようになった。この水は非常に良質で、「インド洋に行っても腐らない」とまで言われ、当時の船乗りたちの間で評判になったという。次にはジェラールは西洋瓦と煉瓦の製造工場を設立、そこで製造される瓦と煉瓦は山手居留地の家々や山下町の商館などの建築に用いられた。ジェラールの瓦は評判も良く、これをまねた偽物まで現れたという。今で言う「偽ブランド品」というわけだが、この頃からそうしたことがあったのかと思うと苦笑を禁じ得ない。

ジェラールは1891年(明治24年)頃に帰国、五十代半ばの頃だった。ジェラールは在日中に多数の仏像や陶器などを収集していたらしく、それらは彼の帰国後にランス市に寄贈され、現在はランス市美術館に保存されているという。1915年(大正4年)、ジェラールは故郷のランス市で亡くなっている。享年78歳だった。日本での給水業と瓦製造業の成功によって財を成し、金利生活者として悠々自適の晩年だったという。こうしたジェラールのプロフィールは「地下貯水槽」に設置された「ジェラール年譜」に詳しいが、それらは近年になってようやく知られるようになったことで、ジェラールの出身地やその後の消息は長く不明のままだったという。

ジェラールの帰国後、横浜の工場はいつしか廃業し、工場跡地は大正活映の撮影所などに用いられた。やがて関東大震災を経て、1927年(昭和2年)にジェラールの遺産相続人から横浜市が工場跡地の永代借地権を買収し、湧き水を利用したプールを中心に公園として整備されることになった。これが現在の元町公園の発端である。
現在の元町公園のプール管理棟脇に、「ジェラール水屋敷」と「ジェラールの瓦とレンガ」に関する解説板が設置されている。プール管理棟自体も趣のある意匠だが、その屋根の一部にも、ジェラールの西洋瓦が用いられているという。

ジェラール水屋敷地下貯水槽
ジェラールが給水業に用いた貯水槽は現存し、「ウォーターガーデン」の北側の少し離れた住宅街の中に「ジェラール水屋敷地下貯水槽」として、ひっそりと横たわっている。この貯水槽は公園から「飛び地」になって離れているために、その存在に気づかない観光客も少なくないかもしれない。

貯水槽脇には「ジェラール年譜」や地下貯水槽の概要などの解説板が設置され、訪れる人にかつて横浜で成功したフランス人実業家の姿を伝えている。解説によれば、貯水槽はその名が示すように湧水の沈殿と貯水を目的とした施設で、約17.6m×約6.5m、高さは約2.5mだそうだ。明治10年代の建設であるらしいが、設計者も施工者も不明であると記されている。

「ジェラール水屋敷地下貯水槽」は平成11年度に元町公園が再整備された際に併せて整備されたもので、2000年(平成12年)に国登録文化財に指定されている。貯水槽上部には長手方向に橋が架けられ、そこを歩いて貯水槽の中を覗き込むと、煉瓦造りの壁面の苔むした様子などを間近に見ることもできる。下部に溜まった水の中には鯉の泳ぐ姿があった。

ジェラール水屋敷地下貯水槽ジェラール水屋敷地下貯水槽
「ジェラール水屋敷地下貯水槽」は元町の住宅街の中にひっそりと在り、元町公園の本園部分から離れているためか、訪れる観光客の姿もあまり多くはないように思える。横浜の歴史に興味のある人にはぜひ訪れてみたい場所のひとつと言ってよいと思うが、そうでない人も横浜観光の「穴場スポット」として訪れてみるのもよいかもしれない。かつてジェラールが給水業に使用した山手の湧水は、今も豊富に湧きだしているという。
元町公園プール管理棟