犬山城は1537年(天文6年)、織田信長の叔父織田信康によって築城されたという。天守閣が築かれたのはいつのことか、はっきりとはわかっていないようだが、現存する形に整えられたのは江戸時代になって成瀬氏が城主となってからのことらしい。犬山城は犬山市街の北方、木曽川の辺の丘の上にあり、木曽川を背にした立地は「後堅固(うしろけんご)」の城と呼ばれるものだそうだ。犬山城は、その南に広がる城下町も堀で囲んで城郭の中に一体化させた「総構え(そうがまえ)」の城として築かれており、今も町の配置などから当時の「総構え」の名残を見つけることができる。
犬山城入口脇、針綱神社参道入口のある交差点から南へ辿ってゆくと、道沿いには犬山市文化資料館なども建っており、道路も現代的に整備されている。この付近は、往時は犬山城の「丸の内」の範囲だったようだ。「犬山藩校 敬道館跡」と題した案内パネルも道沿いに見つけることができる。「敬道館」は1840年(天保11年)に八代藩主成瀬正住が建てたものだそうだ。パネルには簡単な解説が記されている。興味のある人は目を通しておくといい。
「敬道館跡」の南側、通りの東側に「大手門いこいの広場」と名付けられた小公園がある。その名が示すように、かつてはこの辺りに城の大手門があったのだろう。この広場脇、通りに面して1740年(元文5年)に描かれたという絵図と2000年(平成12年)に撮影された航空写真を並べて「総構え」の特徴を説明したパネルが設置されている。現代の航空写真の中にかつての「総構え」の輪郭や町の配置が窺えて興味深い。城下町散策の際にはぜひ目を通しておきたい。
犬山城入口脇、針綱神社参道入口のある交差点から南へ辿ってゆくと、道沿いには犬山市文化資料館なども建っており、道路も現代的に整備されている。この付近は、往時は犬山城の「丸の内」の範囲だったようだ。「犬山藩校 敬道館跡」と題した案内パネルも道沿いに見つけることができる。「敬道館」は1840年(天保11年)に八代藩主成瀬正住が建てたものだそうだ。パネルには簡単な解説が記されている。興味のある人は目を通しておくといい。
「敬道館跡」の南側、通りの東側に「大手門いこいの広場」と名付けられた小公園がある。その名が示すように、かつてはこの辺りに城の大手門があったのだろう。この広場脇、通りに面して1740年(元文5年)に描かれたという絵図と2000年(平成12年)に撮影された航空写真を並べて「総構え」の特徴を説明したパネルが設置されている。現代の航空写真の中にかつての「総構え」の輪郭や町の配置が窺えて興味深い。城下町散策の際にはぜひ目を通しておきたい。