愛知県犬山市の南部、入鹿池の湖岸に博物館明治村という施設がある。施設内には明治期の貴重な建築物が数多く移築展示され、施設全体が博物館としての役割を持っている。夏の暑さの残る九月上旬、博物館明治村を訪ねた。
博物館明治村
博物館明治村
博物館明治村
建築家谷口吉郎博士と、名古屋鉄道の社長も務めた実業家土川元夫氏の二人は、旧制第四高等学校(後の金沢大学)での同窓生だったそうだ。1960年(昭和35年)頃、東京工業大学教授を務めていた谷口吉郎博士と名古屋鉄道副社長の任にあった土川元夫氏は、同窓会の席で、ある問題について語り合ったという。

時は戦後の高度経済成長期の真っ直中だった。日本の社会は経済成長を第一義に進み、古い建築物の文化的価値が顧みられることは少なかった。日本の近代化を支え、その象徴ともなった明治期の建築物も、開発の名の下に次々に取り壊されてゆく状況にあった。谷口吉郎博士と土川元夫氏のふたりは、それを惜しんだ。そして、貴重な明治期の建築物の保存を目的とした明治村の構想を発案するのである。

二人の構想はすぐに実現に向けて動き出す。翌年には設立に向けての準備が始まり、1962年(昭和37年)には財団法人としての明治村が発足している。明治村の建設地には当初は東京が予定されていたらしいが、最終的には愛知県犬山市の南部、入鹿池湖畔の丘陵地が選ばれた。開村に向けて工事は進み、1964年(昭和39年)には博物館としての認可も下りた。札幌電話交換局や京都聖ヨハネ教会堂など、15件の施設を展示し、博物館明治村が開村したのは1965年(昭和40年)3月18日のことだったという。
博物館明治村
博物館明治村
土川元夫氏は1974年(昭和49年)に、谷口吉郎博士は1979年(昭和54年)に、相次いで亡くなったが、二人の思いは今も綿々と受け継がれ、博物館明治村は規模を拡大、展示物は2012年現在で67件を数える。移築された建築物は明治期のものから昭和初期のものまで含み、中には海外に建てられていたものもある。展示物のほとんどは建物だが、京都市電や蒸気機関車、橋梁、灯台なども含まれている。

明治村の中は五つの地区に分けられ、それぞれの地区は「○丁目」と名付けられている。正面玄関のある南端部が1丁目、北口の設けられた北端が5丁目で、そのそれぞれにさまざまな展示物が配されている。各展示物には「丁目」を跨いで通し番号の「番地」が設けられている。敷地面積は100万平方メートルほど、開村時の倍近いという。
博物館明治村
博物館明治村
博物館明治村はその名が示すように博物館法に則った“博物館”だ。明治期を中心とした建築物や施設物の保存展示、それに付随する歴史資料の保存展示をその主たる目的としている。しかし、それらの展示物は、敷地を設けてただ陳列されているだけではない。明治村の“村”の文字が意味するように、起伏に富んだ地形を活かし、以前からこの地に在った豊かな自然や入鹿池の景観も取り込みながら、さらに効果的な植栽や築庭も施し、その中に巧みに園路を設けて展示物を配することによって、かつてそれらの建物が使われていた時代を彷彿とさせるような環境が造られている。そのことにより、各展示物は“無機的な物品”としてではなく、かつて確かに人々の暮らしの中にあった時代の表情を見せてくれる。それが博物館明治村に於ける“展示”の理念なのだろう。
博物館明治村
博物館明治村
例えば2丁目、地区の真ん中をわずかに坂道となった園路が真っ直ぐに延び、その両脇には学校の校舎や銀行の建物などが建ち並び、園路の最も奥まったところには東山梨郡役所の建物が建っている。背後には緑濃く木々の茂った丘が横たわっている。園路の入口側から眺めると、かつて日本のどこかにこうした風景が存在していたのではないかと思えるほどだ。あるいは4丁目、入鹿池を見下ろす丘の上に日本赤十字社中央病院病棟と名古屋衛戍病院の建物が並ぶ辺り、海を望む岬に造られた保養地のようだ。そうした印象は村内のすべての展示物に共通するものだ。それらはただの錯覚かもしれない。しかしその錯覚に身を委ねて遠い明治の風景に心を遊ばせるのは楽しいひとときだ。
博物館明治村
博物館明治村
明治村に展示されている建築物は(2012年9月現在)10件の国指定重要文化財を含む。それ以外のものもすべて歴史的に貴重なものばかりだ。内部の見学ができるものも少なくなく、建物内を利用して歴史資料を展示しているものもある。それぞれの建物や展示資料を丹念に見学してゆくのは楽しく、興味が尽きない。

さらに、単なる展示ではなく今も実際に使われている建物もある。1丁目の大井牛肉店は牛鍋屋として営業しており、2丁目の京都中井酒造にも中に甘味処がある。5丁目の帝国ホテル中央玄関の二階にも喫茶室が置かれている。4丁目では歩兵第六聯隊兵舎一階には雑貨店が、工部省品川硝子製造所一階には雑貨やアクセサリーなどのガラス製品の店が営業している。他にも店舗として使われている建物が村内には点在しており、それらに立ち寄ってみるのも楽しい。また4丁目の宇治山田郵便局舎(国の重要文化財)では実際に現行の郵便業務を行っているという。貴重な建築物を実際の使用に供しながら保存展示するのも明治村の理念のひとつなのだろう。
三重県庁舎(1丁目13番地)
三重県庁舎は当時の県令岩村定高によって1876年(明治9年)に計画され、その3年後の1879年(明治12年)に完成したものという。木造の二階建て、間口54メートルという堂々とした建物だ。当初は愛知県庁に倣って中庭を設けた回字形平面二階建てで計画されたそうだが、最終的には玄関を中心に左右対称のE字型、正面側に二層のベランダを配した構成となった。これは当時の官公庁の建造物として典型的なもので、1876年(明治9年)に東京大手町に建てられた内務省庁舎に倣ったものだそうである。
三重県庁舎
三重県庁舎
この建物の設計で中心的役割を果たしたのは三重県庁第三課土木掛の清水義八という人物だが、清水義八は元々は地元の大工だったという。明治期に建てられた洋風建築物は外国人建築家や、その門下生によって設計されたものが広く知られている(博物館明治村の中にもフランク・ロイド・ライトによる帝国ホテル中央玄関やジェームズ・ガーディナーによる聖ヨハネ教会堂などが保存されている)が、それらを参考に日本人技術者(要するに大工)が建てたものも少なくはない。この三重県庁舎もそうしたもののひとつだ。そうした建物を見るたび、当時の日本の人々の、特に“ものを造る”ことに携わった人々の、“新しいもの”に対する進取の気概が感じられて感動を覚える。三重県庁舎の建築を任された清水義八の胸中にも思いを馳せておきたい。
三重県庁舎
三重県庁舎
三重県庁舎の建物は内部の見学も可能だ。知事室や応接室などが再現され、また別室にはさまざまな歴史資料が展示されている。それぞれに興味深く、ゆっくりと見学していると時の経つのを忘れる。
三重県庁舎
この建物は1879年(明治12年)に建てられて以来、85年間を三重県庁舎として使われていたが、1964年(昭和39年)、新庁舎の完成とともにその役割を終え、解体。その後、1966年(昭和41年)に博物館明治村へ移築復元されたものだ。1968年(昭和43年)、国の重要文化財の指定を受けている。
三重県庁舎
清水医院(2丁目17番地)
長野県木曽郡大桑村須原、中山道沿いに建っていたという清水医院の建物だ。須原生まれの清水半次郎という人物が東京で医学を学んだ後、地元に戻り、医院を開業したのだそうだ。いつ建てられたのかは詳しくわかっていないようだが、明治30年代(1897〜1906年)頃ではないかという。建物は土蔵作り、木曽檜による柿葺(こけらぶき)の屋根を載せている。白壁にアーチの窓を配した外観は少しばかり洋風な佇まいもあって、旅籠の建ち並ぶ街道沿いで目立ったという。
清水医院
建物は内部に上がることはできないが、土間部分から室内を見学することができる。土間に面して待合室と薬局が並び、待合室の奥には診察室も再現されている。薬局の戸棚には薬瓶が並び、薬を調合するときに用いたのだろう、秤も展示されている。診察室の床は板張りだが、待合室は畳敷きで中央に火鉢が置かれているのも興味深い。
清水医院
この清水医院には島崎藤村の姉園子が入院していたことがあるそうだ。島崎藤村の小説「ある女の生涯」は、その姉園子をモデルに書かれたもので、作品中に須原の蜂谷医院として登場するのが、この清水医院だそうである。
清水医院
長崎居留地二十五番館(3丁目31番地)
長崎の外国人居留地である南山手に、1889年(明治22年)、スコットランド出身のコルダー(John Fulton Calder)の住宅として建てられた建物だそうだ。

コルダーは1867年(慶応3年)に来日、長崎のボイド商会から横浜の三菱製鉄所、神戸の大阪造船所を経て、長崎造船所が国から三菱に払い下げられた際、マネージャーとして長崎に戻ったという。明治期の日本造船業の発展に貢献した人物である。そのコルダーが長崎に戻った際、南山手に居宅として建てたのが、この建物である。

三方にベランダが沿い、各部屋に暖炉を設けた構成は典型的な居留地建築なのだそうだ。東南アジアに多く建てられた、いわゆる植民地建築の影響を受け、軒が深く造られているのだという。ベランダの屋根が本屋根から一段下がっているのは屋根が冗長になるのを避けたためだろうということだが、それが外観上のアクセントになって特徴的な佇まいを見せている。

内部には調度品などが展示されており、テーブルには食器などがセッティングされていた。コルダーがこの家に暮らした当時の様子を窺い知ることができ、なかなか興味深い。
長崎居留地二十五番館
長崎居留地二十五番館
長崎居留地二十五番館
神戸山手西洋人住居(3丁目32番地)
神戸市生田区に建てられていた住宅だそうだが、建物の沿革について詳細はよくわかっていないようだ。明治20年代(1887〜1896年)に外国人住宅として建てられたものらしいが、1896年(明治29年)には日本人増田周助が所有していたとの記録があるという。決して規模の大きな建物ではないが、瀟洒な洋館としての佇まいは当時の神戸の町に相応しい意匠なのだろう。
神戸山手西洋人住居
木造二階建ての主屋と付属屋から構成されているが、主屋と付属屋を組み合わせる手法は神戸西洋館の典型なのだそうだ。主屋は一階と二階が同じ間取りで、玄関、階段、中廊下をまとめた両脇に部屋が配されているという。外側二面にはベランダが設けられており、ベランダ側から見る建物の景観が美しい。
神戸山手西洋人住居
敷地からは入鹿池を見下ろし、海を見下ろす岬に建てられているような錯覚を覚える。建物脇に植栽されたシュロの木も建物の意匠に似合っている。展示に際しての演出なのだろうと思うが、なかなか素敵だ。
神戸山手西洋人住居
芝川又右衛門邸(3丁目68番地)
現在の西宮市甲東園に、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として1911年(明治44年)に建てられたものと言う。芝川又右衛門は先代が興した輸入業を引き継ぎつつ、事業を拡大、当時発行された「大日本持丸長者鑑(今で言う長者番付)」にも名を連ねた豪商である。
芝川又右衛門邸
この建物は当時京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)図案科主任を務めていた武田五一の設計による。武田五一は東京帝国大学工科大学を卒業、大学院に進学後、ヨーロッパに留学、帰国後にいち早く日本にアール・ヌーヴォーを紹介したことでも知られる。京都高等工芸学校教授などを歴任した後、京都帝国大学(現在の京都大学)に工学部建築学科を創設し、初代教授に着任した。主として関西で活動した建築家で、大阪、京都を中心に数多くの作品を残している。

芝川又右衛門邸の建物は木造二階建ての瓦葺き、一階はベランダを沿わせた洋風に、二階は和風に仕上げられた和洋折衷の様式で、どこかスイスの山荘を思い起こさせる外観が素敵だ。明治村内の高台、木々に包まれるようにして建つ姿が似合っている。
芝川又右衛門邸
芝川又右衛門邸
名古屋衛戍病院(4丁目37番地)
名古屋衛戍病院は、明治初期、当時の軍によって各地に整備された衛戍病院のひとつで、1878年(明治11年)、名古屋市中区三の丸に建てられたものという。本来は六棟の病棟が中庭を囲む構成で、これは当時の洋式大病院の典型的な形式だったそうだが、明治村には病棟一棟と管理棟のみが移築されている。
名古屋衛戍病院
建物は木造平家建桟瓦葺、天井に換気設備も設けられているという。軍によって建てられた病院だからか、全体的に質素な造りだが、それがかえって清潔感につながっているようだ。明治村に於ける立地は入鹿池を見下ろす丘の上、開放的な印象と相俟って、まるで海を見下ろす丘陵地に建てられた保養所のような佇まいだ。当時の医師や看護師が行き交う光景を思い浮かべながら、病棟の周囲に巡らされたベランダを歩いてみるのも一興だろう。
名古屋衛戍病院
室内には医療用器具の展示などもあり、興味深く見学することができる。1895年(明治28年)、ドイツの物理学者レントゲンによってX線が発見され、医療への応用がなされたが、日本でも1909年(明治42年)に島津製作所が国産初の医療用X線装置「ダイアナ号」を完成させている。この「ダイアナ号」も展示されている。これも見ておきたい。
名古屋衛戍病院
帝国ホテル中央玄関(5丁目67番地)
帝国ホテルが開業したのは1890年(明治23年)のことという。渡辺譲の設計による木骨煉瓦造り、三階建て、60室ほどの客室を備えていた。時代が大正を迎えた頃、新館の建設が決定される。設計を依頼されたのはアメリカの著名な建築家、フランク・ロイド・ライトである。フランク・ロイド・ライトはこれに応え、1916年(大正5年)に来日している。ライトの指揮のもとで帝国ホテル新館建築の準備が進む中、1919年(大正8年)に初代帝国ホテルが失火により全焼してしまう。新館の完成は急がれ、1920年(大正9年)には新館建設が始まるが、コストを度外視したライトの完璧主義はホテル経営陣と対立、1922年(大正11年)にはライトは帝国ホテル新館の完成を待たずに離日を余儀なくされている。ホテル新館の建設はライトの弟子であった遠藤新に引き継がれ、1923年(大正12年)8月末、ようやく帝国ホテル新館全館が完成する。その落成披露の準備中の9月1日、関東大震災が東京を襲う。東京全域が大きな被害を被った中、ライトによる帝国ホテル新館はほぼ無傷で建っていたという。その帝国ホテルも1945年(昭和20年)の東京大空襲では大きな被害を受けた。終戦を迎えるとGHQ高官用宿舎として接収、その際に修復工事が行われたという。1948年(昭和23年)には接収が解除されて営業を再開、日本を代表するホテルのひとつとしての名声と格式を保ち続けた。

フランク・ロイド・ライトの設計によって1922年(大正11年)に完成した帝国ホテル新館も、しかしやがて老朽化、1964年(昭和39年)に建て替え計画が発表される。保存運動もあったようだが、営業的判断からも継続は不可能だったようだ。1967年(昭和42年)にはライトによる本館は閉鎖、その跡地には1970年(昭和45年)に新しい本館が建てられている。

取り壊されたライト設計による帝国ホテル本館、いわゆる「ライト館」は、総面積34,000平方メートルを超える、規模の大きな建物だった。玄関、大食堂などが中央部に設けられ、その両脇に客室棟が翼を広げたように配されていた。建物は一体化しておらず、各部が分けられ、それを連結した構造になっていたという。地震の多い日本で、しかも立地の地盤が弱かったため、一部の倒壊が全体に波及するのを防ぐ目的があったらしい。中央玄関のメインロビーは三階までの吹き抜け、それを囲むように天井高の異なる空間が配されるという、立体的な構成の特徴的なものだった。その中央玄関部分を明治村に移築復元したものが、この帝国ホテル中央玄関である。
帝国ホテル中央玄関
帝国ホテル中央玄関
帝国ホテル中央玄関
帝国ホテル中央玄関
帝国ホテル中央玄関
明治村の帝国ホテル中央玄関の前には池が設けられているが、かつて東京都千代田区内幸町に建っていたときにも玄関前には池があった。その池周辺の構造物も含めて移築復元されたものなのだろう。明治村に展示されているものは中央玄関部分のみだが、それでもかなり大きな建物だ。往時の全体の大きさは推して知るべしといったところか。その存在感の大きさには圧倒される思いがする。内部の見学も可能で、内部の一角を利用して喫茶室も営業している。喫茶室で一休みしつつ、帝国ホテル本館として現役だった当時を思い浮かべてみるのも一興だろう。

フランク・ロイド・ライトは“巨匠”と呼ぶべき建築家だ。建築に少しでも興味のある人ならその名を知らない人はいない。中央玄関部分だけではあるが、そのフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテルの建物である。建築を学ぶ人、建築に興味のある人であれば、一度は見学しておかなくてはならないだろう。
帝国ホテル中央玄関
帝国ホテル中央玄関
博物館明治村
博物館明治村は敷地面積約100ha、村内を歩いてみるとその広さを実感する。丘陵地を利用した敷地は緩やかな起伏を伴い、林地も効果的に残され、その中に明治期から昭和初期にかけて造られたさまざまな建築物や設備が展示されている。村内は端正に整備され、風景そのものも美しく、その中に溶け込むように建てられた明治の建物が興趣に富んだ風情を漂わせている。
博物館明治村
博物館明治村
園路に沿って歩けば、さまざまに表情を変えた風景が眼前に現れ、飽きることがない。建物の外観を眺めながら散策を楽しんだり、興味に任せて丹念に見学したり、蒸気機関車や京都市電に乗ってみるのも楽しい。村内に再現された明治の風景の中に身を置き、日本が近代化の道を歩んだ時代へと心を遊ばせるのはとても楽しいひとときだ。広い村内をあちこち歩き回っていると少しばかり疲れてくるが、そんなときは村内を運行する“村営バス”を利用すると便利だ。乗車券を購入すれば、一日中乗り降りが自由だ。
博物館明治村
建築に興味のある人、明治という時代に興味のある人なら一度は訪ねてみたい明治村だが、100haの村内に67件(2012年現在)の展示物という規模では一度の来訪で全てを見学するのはおそらく不可能だ。訪れる時には下調べをしておき、目当ての展示物を絞り込んでおくとよいかもしれない。近隣に暮らしていて比較的気軽に訪れることの可能な人なら、何度も訪れて少しずつ丹念に見学してゆけばいい。
博物館明治村
明治村は基本的に博物館だが、あまり堅苦しく考える必要はない。明治の風情を漂わせた、一種のテーマパークとして捉えて気軽に楽しむのも悪くない。明治期の貴重な文化遺産の保存と展示という目的を担う博物館でありつつ、誰もが楽しむことのできる観光地としても成立している。さまざまな魅力に溢れた、素晴らしい施設である。
博物館明治村
参考情報
当然のことながら、博物館明治村は“入村料金”が必要だ。料金や開村時間、休村日、その他の注意事項など、詳細については博物館明治村公式サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通
博物館明治村は鉄道の駅から離れているため、駅からバスを利用しなくてはならない。名鉄犬山駅東口から明治村行きバス、名古屋駅の名鉄バスセンターから都市間高速バス「名古屋・桃花台線」などが利用できる。詳細は博物館明治村公式サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)や名鉄バスのサイトを参照されたい。

車で来訪する場合は中央自動車道の小牧東ICから東へ、県道49号から県道16号へと辿ればいい。小牧東ICから3kmほどだ。国道19号から小牧東インター道路を経由して小牧東IC入口を通過、県道49号から県道16号へと辿ってもいい。美濃加茂市方面から来る場合は国道41号から県道188号へと逸れて南下するといい。犬山市方面から来る場合は県道27号を南下、県道16号へと逸れて東進するのがわかりやすいだろう。

駐車場は北口側に設けられており、有料。駐車台数には余裕がありそうに見えたが、行楽シーズンの休日には足りなくなるかもしれない。

飲食
村内にはレストランや軽食の可能な店が点在しているが、施設の規模に比べれば数は少ないだろう。来村者が多いときには混み合うことは必至だ。

お弁当の持ち込みは可能とのことで、建物内での飲食は禁止だが、芝生広場やベンチを利用すればよいようだ。陽気の良い季節であればお弁当を準備して訪れるのもお勧めだ。

周辺
博物館明治村に訪れたときには、やはり犬山市街にも立ち寄っておきたい。国宝の犬山城城下町の町並みなどはぜひ見ておきたい。博物館明治村と犬山城とのセット入場券も販売されているので利用するといい。犬山市は木曽川の河畔に広がる町だ。木曽川の川辺を散策したり、鵜飼いも見ておきたいところだ。家族連れなら「日本モンキーパーク」も楽しいだろう。
建物探訪
愛知散歩