建築家谷口吉郎博士と、名古屋鉄道の社長も務めた実業家土川元夫氏の二人は、旧制第四高等学校(後の金沢大学)での同窓生だったそうだ。1960年(昭和35年)頃、東京工業大学教授を務めていた谷口吉郎博士と名古屋鉄道副社長の任にあった土川元夫氏は、同窓会の席で、ある問題について語り合ったという。
時は戦後の高度経済成長期の真っ直中だった。日本の社会は経済成長を第一義に進み、古い建築物の文化的価値が顧みられることは少なかった。日本の近代化を支え、その象徴ともなった明治期の建築物も、開発の名の下に次々に取り壊されてゆく状況にあった。谷口吉郎博士と土川元夫氏のふたりは、それを惜しんだ。そして、貴重な明治期の建築物の保存を目的とした明治村の構想を発案するのである。
二人の構想はすぐに実現に向けて動き出す。翌年には設立に向けての準備が始まり、1962年(昭和37年)には財団法人としての明治村が発足している。明治村の建設地には当初は東京が予定されていたらしいが、最終的には愛知県犬山市の南部、入鹿池湖畔の丘陵地が選ばれた。開村に向けて工事は進み、1964年(昭和39年)には博物館としての認可も下りた。札幌電話交換局や京都聖ヨハネ教会堂など、15件の施設を展示し、博物館明治村が開村したのは1965年(昭和40年)3月18日のことだったという。
時は戦後の高度経済成長期の真っ直中だった。日本の社会は経済成長を第一義に進み、古い建築物の文化的価値が顧みられることは少なかった。日本の近代化を支え、その象徴ともなった明治期の建築物も、開発の名の下に次々に取り壊されてゆく状況にあった。谷口吉郎博士と土川元夫氏のふたりは、それを惜しんだ。そして、貴重な明治期の建築物の保存を目的とした明治村の構想を発案するのである。
二人の構想はすぐに実現に向けて動き出す。翌年には設立に向けての準備が始まり、1962年(昭和37年)には財団法人としての明治村が発足している。明治村の建設地には当初は東京が予定されていたらしいが、最終的には愛知県犬山市の南部、入鹿池湖畔の丘陵地が選ばれた。開村に向けて工事は進み、1964年(昭和39年)には博物館としての認可も下りた。札幌電話交換局や京都聖ヨハネ教会堂など、15件の施設を展示し、博物館明治村が開村したのは1965年(昭和40年)3月18日のことだったという。