織田の家に生まれた長益は当然のことながら戦国武将のひとりとして激変する歴史に翻弄されながら生涯を送っている。本能寺の変が起こったとき、織田長益は京都の二条御所にあったようだが、辛くも脱出、近江安土から岐阜へと逃れた。その後は甥である織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは信雄方の武将として徳川に味方しているが、戦いが終結した後は秀吉に仕えている。剃髪して有楽斎と名乗るようになったのはこの頃らしい。秀吉の死後は徳川に与し、関ヶ原の戦いでは東軍についている。その後は家康の指示で大阪城に入城、豊臣秀頼、淀殿に仕えた。しかし大阪夏の陣を前に、「城内の誰も自分の指示に従わず、城内に留まるのは無意味」と、家康の許可を得て城を出たという。その後は京都に隠棲、茶人として暮らした。有楽斎の茶法は「有楽流」という流派を生み、次男頼長、四男長政、五男尚長らが受け継ぎ、尾張徳川家にも伝えられたという。ちなみに東京都千代田区の有楽町の町名は、江戸幕府が開かれたとき、織田有楽斎が土地を拝領し屋敷を構えたことに由来するそうである。