1646年(正保3年)、九州の太宰府天満宮の神官を務めていた、菅原道真の末裔、菅原信祐は、神託によって道真縁の“飛び梅”の枝で天神像を彫り、社殿建立のために九州を出る。諸国を巡り、ついに亀戸村へ至り、村に古来在った小さな祠に天神像を祀った。1661年(寛文元年)のことという。
隅田川東岸のこの地域は、昔は低湿地の荒れ野だったらしく、それを開墾してようやく農地が築かれ、江戸時代初期には土地を開発した領主が支配する「荘園」だったのではないかという。荘園を支配する領主のことを「本所」と呼ぶが、現在まで残る地名の「本所」は荘園時代の呼称が残ったものらしい。
江戸の町は隅田川西岸に広がっていたが、急激な発展とともに過密状態になってしまっていた。その江戸で、1657年(明暦3年)、大火災が発生する。世に言う“明暦の大火”(またの名を“振り袖火事”ともいう)である。この火災によって江戸の町の大半が焼失してしまった。その復興に際し、増えてゆく人口と拡大する町域へ対処するため、江戸の町は新たな“都市計画”の基に造り直されることになる。その一環として、隅田川東岸の本所にも町が築かれ、江戸の町に組み入れられることになった。
菅原信祐が亀戸村の小祠に天神像を安置したのは、ちょうどその頃だ。時は四代将軍家綱の治世、天神信仰に篤かった家綱はこの天神社を地域の鎮守とし、境内地を与え、1662年(寛文2年)、九州の太宰府に倣った配置で社殿や回廊、心字池などを建立した。これが現在までの残る亀戸天神社の直接の起源である。