東京都墨田区の北部、東武スカイツリーラインに鐘ヶ淵という駅がある。周辺は墨田区墨田の町、昔ながらの町並みが広がる。西には隅田川も近い。新緑も眩しい四月の末、鐘ヶ淵周辺の町を訪ねた。
鐘ヶ淵
鐘ヶ淵
東武スカイツリーラインで「浅草」から四駅、「鐘ヶ淵」という駅がある。墨田区の北部に位置し、周辺には墨田区墨田○丁目と名付けられた町が広がっている。墨田の町は細い路地が入り組み、町歩きの楽しいところだ。西には隅田川が流れ、その河岸に都立東白鬚公園が設けられている。木々が植栽されて緑濃い公園から隅田川の河岸へかけての散策も楽しい。隅田川の河岸を北へ辿ると、隅田川が大きく屈曲するところで、「鐘ヶ淵」の地名の由来にもなった。

鐘ヶ淵駅から都立東白鬚公園へ、それから隅田川河岸へ出て、その後は墨田五丁目の町中を抜けて鐘ヶ淵駅へ戻るというコースで、町歩きを楽しんでみよう。隅田川の流れも美しく、墨田五丁目の町は下町風情が漂い、途中にはいくつもの予期せぬ発見がある。気の向くままの、鐘ヶ淵散歩である。
鐘ヶ淵
鐘ヶ淵
鐘ヶ淵駅
鐘ヶ淵駅は小さな駅だ。周辺は店舗などが建ち並んで繁華な様子だが、大きな商業ビルなどはなく、下町風情を感じさせる佇まいだ。駅のすぐ南側が踏切になっているが、駅前から踏切にかけて、四方から8本の道路が集まって複雑な交差点を成している。

駅前広場の一角に、墨田区教育委員会による「武蔵・下総を結んだ古代東海道」と題した案内板が設置されている。その記述によれば、鐘ヶ淵駅の付近には、かつて武蔵国と下総国とを結ぶ古代の官道があったという。9〜10世紀頃に官道に定められ、京の都から常総へと至る幹線道路として多くの人々に利用されていたと考えられている。墨田区や葛飾区、江戸川区には官道跡を示す地名が今も残っているという。ここから西へ進めば隅田川だが、古代東海道は隅田川を舟で渡し、現在の浅草方面へと延びていた。

鐘ヶ淵駅前に立って行き交う人の姿を眺めながら、遠い古代の街道を行き交った人々の姿を思うのも楽しいひとときである。
鐘ヶ淵駅
鐘ヶ淵陸橋
鐘ヶ淵駅前から北西の方角へ延びる道を辿ってゆくと、200m余りで「鐘ヶ淵陸橋」交差点だ。南北に抜ける墨堤通りと交差するが、その名の通り、陸橋となっていて墨堤通り本線はアンダーパスとなっている。

交差点の中央帯には「鐘ヶ淵陸橋碑」が設けられており、北側の碑には「鐘ヶ淵」の由来が記され、歌川広重が「名所江戸百景」で描いた「木母寺内川御前栽畑」のレリーフが施されている。「御前栽畑」とは徳川将軍の食事に使う野菜を栽培する畑のことだ。当時、木母寺近くに設けられた「御前栽畑」まで、隅田川から内川を辿って舟で行き来ができた。なかなか美しい景色のところだったようである。

「鐘ヶ淵陸橋」交差点から西へ都道461号が延び、水神大橋で隅田川を跨いで対岸の荒川区南千住へと繋いでいる。
鐘ヶ淵陸橋
榎本武揚像
「鐘ヶ淵陸橋」交差点付近から南へ、墨堤通りの西側には都営白鬚東アパートなどの高層住宅が建ち並んでいる。その一角、梅若公園内に榎本武揚像が建っている。

榎本武揚は幕末の箱館戦争に於ける中心人物として知られるが、明治期には逓信大臣や農商務大臣、文部大臣、外務大臣などを歴任、育英黌農業科(現在の東京農業大学)を創設するなど、多大な功績を残し、晩年は向島に暮らした。

この銅像は榎本武揚没後の1913年(大正2年)に現在地に建てられた。当時、この場所は木母寺の境内だったらしい。大隈重信や渋沢栄一、大倉喜八郎といった政財界の重要人物が建設者として名を連ねている。原型作者は田中親光と藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎とのことである。
榎本武揚像
東白鬚公園
「鐘ヶ淵陸橋」交差点から墨堤通りを南へ約1km、「白鬚橋東詰」交差点を西に折れて東白鬚第一マンションの西側に回り込めば東京都立東白鬚公園だ。東白鬚公園はここから北へ1.3kmほどの長さで細長く伸びる。公園は非常災害時の避難場所としても機能するように造られている。公園と墨堤通りの間に並ぶ高層住宅には防災シャッターや避難用ゲート、さらには広場散水用放水銃などが完備され、それらが避難場所としての公園と半ば一体化して非常時に備えているのだ。この周辺は海抜0m地帯、公園内の地盤は周辺より高くなるように造られているという。

公園は多くの木々が植栽されて緑濃い印象だ。四月の末、南側の広場には鯉のぼりが泳ぐ。北側から眺めれば、その向こうに東京スカイツリーの姿が見える。なかなか印象的な景観だ。遊具類を設置した広場には多くの家族連れの姿がある。隣接する高層住宅に暮らす人たちの日常的な憩いの場なのだろう。

公園内には桜の木も多いが、他にも梅や花水木、百日紅、ハンカチの木、金木犀なども植栽されており、四季折々にそれらの花を楽しむことができる。非常災害時の避難場所として機能することが第一義の公園だが、周辺に暮らす人たちのための憩いの場としても充分に機能しているように思える。園内に設けられた小野球場では少年野球の試合が行われていた。
東白鬚公園
東白鬚公園
隅田川神社
東白鬚公園の中央部辺り、公園と隅田川の間に位置して隅田川神社が鎮座している。創建がいつ頃かはよくわかっていないものの、源頼朝が関東下向の際に暴風雨に遭い、当社に祈願したと伝えられているという。「隅田川神社」と称されるようになったのは1872年(明治5年)からで、昔は「水神宮」、あるいは「浮島宮」と呼ばれていたらしい。古くから地域の鎮守として、そしてまた隅田川一帯の守護として崇敬され、特に船乗りや水運業の人々、船宿といった人々の信仰が篤く、また“水”の繋がりで、水商売の人たちからも信仰されてきたという。

社殿は絢爛な印象はないが古社らしい風格を漂わせている。現在では首都高速6号向島線を背負うように建っているが、昔は境内地と隅田川との間に堤防もなく、隅田川の河岸からそのまま参詣できたようである。「水神様」として信仰されてきた神社らしく、社殿の前には狛犬ではなく、“霊亀”が参詣の人々を迎えている。

かつて神社の周辺には樹林地が広がっており、「水神の森」と呼ばれていたという。歌川広重が「江戸名所百景」の中の「隅田川水神の森真崎」で描いた「水神の森」である。その「水神の森」も、今は東白髭公園に姿を変え、非常災害に備えているというわけだ。今も昔も、この地域の守護である。
隅田川神社
東白鬚公園
鐘ヶ淵
東白鬚公園の北端から鐘淵中学校跡地の横を抜けて北へ辿れば、隅田川の河岸へと出ることができる。ここが「鐘ヶ淵」である。西から流れてきた隅田川は、ここで大きく南に曲がる。その様子が大工の使う指矩(さしがね)に似ていることから「かねが淵」と呼ばれるようになったという。昔はここで隅田川に綾瀬川が合流していた(現在では綾瀬川と隅田川との間に荒川が流れ、鐘ヶ淵で荒川と隅田川とを旧綾瀬川が繋ぐ形になっている)。そのため航路の難所としても、その名が広く知られるようになったようだ。

台東区の石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際、梵鐘が川に落ち、今に至るまで引き上げられることなく沈んだままだという。これが「鐘ヶ淵」の由来だともいうが、1983年(昭和58年)に墨田区が設置した「「鐘ヶ淵」の由来」に依れば、後世になって生まれた伝説であるらしい。

河岸のテラスに立てば、眼前に隅田川が蕩々と流れている。正面、西から流れてきた隅田川がここで大きく屈曲して南へ向かってゆく。そこへ旧綾瀬川が合流する。隅田川を挟んだ対岸は荒川区南千住の町、河岸には汐入公園が設けられており、こちらからもその風景が見えている。旧綾瀬川の対岸は足立区の千住曙町、河岸には造船会社があって風情ある風景を見せる。その向こうに高層の住宅が建っているのも現代の東京を象徴する風景だろう。

河岸から眺めていると、隅田川の見せるさまざまな表情に時の経つのを忘れる。隅田川を、ときおり船が行き過ぎる。下ってゆく船を追って南に視線を向ければ、流れてゆく隅田川に水神大橋のアーチが架かり、そのすぐ左手に東京スカイツリーが聳えている。隅田川の河岸には遊歩道が整備され、下流側は白鬚橋の袂まで続いている。のんびりと河岸を辿ってみるのも楽しそうだ。
鐘ヶ淵
鐘ヶ淵
鐘ヶ淵
鐘淵紡績株式会社発祥の地
この鐘ヶ淵の地に、1887年(明治20年)、東京綿商社が創立され、英国から輸入した紡績機械を構えて紡績工場が造られる。工場は1889年(明治22年)に完成、同時に会社は「鐘淵紡績株式会社」を名乗ることになる。後のカネボウである。カネボウは繊維業を中心に化粧品や薬品、食品、日用品など、幅広く事業展開していた大企業だった。しかしいつしか経営は悪化、2007年(平成19年)には解散となっている。

解散前に分離されたカネボウ化粧品は現在では花王の傘下だ。カネボウの薬品・食品関連の事業はクラシエグループが引き継いだ形だが、「カネボウブランド」を引き継がなかったために、もはやカネボウとは完全に別の企業として認知されていると言っていい。

鐘淵紡績株式会社の創業地跡地は、今は花王ロジスティクスとカネボウ化粧品の事業所となっているが、その敷地の一角に「カネボウ公園」と名付けられた小公園があり、そこに「鐘淵紡績株式会社発祥の地」碑が建っている。碑は1969年(昭和44年)に建てられたもののようだ。この年、カネボウは創業地の紡績工場跡地に建てられていた化粧品工場を閉鎖している。碑はその際に建てられたものなのかもしれない。「発祥の地」というものに興味ある人なら訪ねておきたいところだろう。
カネボウ化粧品
「鐘淵紡績株式会社発祥の地」碑
多聞寺
「鐘淵紡績株式会社発祥の地」碑から少し南へ辿ると多聞寺という寺が建っている。昔は墨田堤の外側、水神森近くにあったそうだが、徳川氏が江戸に入って間もなく現在地に移されたものという。隅田川七福神のひとつである毘沙門天を祀っており、七福神巡りの人たちが多く訪れる寺である。

多聞寺の山門は江戸時代中期に建てられたもので、墨田区内で最古の建造物だという。墨田区指定文化財である。そもそもは1649年(慶安2年)に建立された山門だということだが、その後に焼失、1800年頃までに再建されたものらしい。茅葺き屋根を載せた門は簡素な造りだが、なかなかの風格を漂わせている。

境内の六地蔵座像は隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って1713年(正徳3年)から1716年(享保元年)の間に建立されたものという。欠損が見られ、また修復されたものもあるが、墨田区登録文化財である。六地蔵は総高約150cm、下から一段目、二段目は方形の台石、三段目は蓮台となっており、その上にお地蔵様が座していらっしゃる。お地蔵様はそれぞれ幡や宝蓋などを持たれているが、欠損などにより持ち物の不明なものもある。それぞれにお姿の異なるお地蔵様の姿をぜひ見ておきたい。

多聞寺境内には「東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨」も展示されている。1945年(昭和20年)3月10日未明、東京の下町一帯は米軍による大規模な絨毯爆撃を受けた。いわゆる“下町空襲”である。空襲による死者は10万を超え、百万を超える人々が罹災したというが、正確な数は不明のままだ。当時、浅草国際劇場は風船爆弾の工場だったそうだ。東京大空襲の際に直撃弾を受けてちぎれ曲がった鉄骨の一部がこうして展示され、戦争の悲惨さを今に伝えている。
多聞寺
多聞寺
多聞寺
墨田五丁目の町
この辺りは墨田区の北端部に当たる。「墨田」の地名は、1947年(昭和22年)に向島区と本所区が一つの区になった際に「墨田区」と名付けられたことに始まる。隅田川堤の通称である「墨堤」の「墨」と「隅田川」の「田」の文字をとって「墨田」と名付けられたものという。現行の行政町名として「墨田」を冠するのが「墨田一丁目」から「墨田五丁目」で、そのほぼ中心部に鐘ヶ淵駅がある。まさに墨田の中の墨田と言っていいかもしれない。

墨田五丁目の南側(すなわち鐘ヶ淵駅に近い辺り)は下町風情溢れる町並みが広がっている。家々がひしめき合うように立ち並び、その間を縫って細い路地が複雑に入り組んでいる。通り抜けることができるのか、行き止まりなのか、すぐにはわからないような路地もあって、まさに“迷い込んだ”ような感覚を味わいながらの町散歩が楽しめる。

路地に面して鉢植えを並べた家も少なくないが、その鉢からそのまま下の地面に根を張り、結果的に鉢が割れてしまっているようなものもあって少し驚く。路地沿いの家々の前には多くの自転車が停められている。車が入り込めない細い路地であるため、人々の日常的な“足”はもっぱら自転車なのだろう。路地と路地が交差する辻には小さな商店が建っていたりもする。地元の人が立ち寄って買い物だ。家々が並ぶ中にひょっこりと鳥居があって小さな社が祀られている。社にはもちろん名があるのだろうと思うが、来訪者の立場ではよくわからない。

気の向くままに路地を辿ってゆくと、思いがけず素敵な風景を見つけることができて飽きない。こうした下町の路地散歩の好きな人にはお勧めの町である。

しかし、こうした町は防災の面では好ましくないことも事実だ。この町もまた、少しずつ再開発され、その姿を変えてゆくのだろう。そんなことを思いながら路地を抜けてゆけば、やがて鐘ヶ淵駅である。
墨田五丁目の町
墨田五丁目の町
墨田五丁目の町
参考情報
交通
鐘ヶ淵駅は東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の駅だ。他路線を利用して都心方面から来る場合は浅草や押上で乗り換えればいい。

車で訪れる場合は首都高速6号向島線を利用し、堤通出口で出れば近いが、残念ながら周辺には時間貸し駐車場は少なく、規模も小さい。車での来訪はお勧めしない。

飲食
鐘ヶ淵駅周辺に飲食店が点在しているが、数は多くはない。

駅前のコンビニエンスストアでサンドイッチやおにぎりなどを買って、東白鬚公園や隅田川河岸のテラスなどでアウトドアランチを楽しむのも悪くない。

周辺
南へ足を延ばせば東向島の町だ。町歩きを楽しんだり、向島百花園を訪ねてみるのがお勧めだ。

水神大橋を渡れば隅田川の対岸は荒川区南千住の町だ。河岸に設けられた汐入公園を散策したり、南千住の町歩きを楽しむのもお勧めだ。
水景散歩
町散歩
東京23区散歩