向島百花園は1800年代初期、骨董商を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)という人物が文人墨客の協力を得て造園したものだという。1804年から1830年までの、いわゆる「文化文政時代(「文化文政期」、「化政時代」などとも呼ばれる)」は第十一代将軍家斉が治めていた時代で、江戸を中心に町民文化が発展した時代だったらしい。版画の技術が向上し、多色刷りの浮世絵、いわゆる「錦絵」が盛んになったのもこの頃で、1830年代に入ると葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」などが作られている。風刺の効いた狂歌や川柳が流行し、そしたまた十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や式亭三馬の「浮世風呂」といった「滑稽本」が世に出されたのもこの“文化文政期”だ。
佐原鞠塢は江戸で活動する文人墨客の協力のもと、彼らが集い、花々を愛でる場所として花園を造り、それを広く公開した。庶民文化の花開いた時代を象徴するものかもしれない。当初は360本の梅を植えて梅園として造られたということだが、やがて万葉集などに縁の草木など、さまざまな草花が植えられ、四季を通じて花々を愛でることのできる花園として定着したという。絵師の酒井抱一もこの花園の“常連”のひとりで、「百花園」の名も酒井抱一による命名という。開園当初は梅園としての性格が濃かったため、「梅は百花に魁けて咲く」ということから酒井抱一が命名したというのだが、他説には「四季百花の乱れ咲く園」との意味で「百花園」と呼ばれるようになったともいう。
江戸時代には多くの文人墨客に愛された百花園だが、明治期以降には荒廃した時期もあったという。洪水の被害も幾たびか被っている。開園時から“民営の花園”として続いてきた百花園だったが、ついに1938年(昭和13年)、最後の所有者から東京市へ譲渡され、翌1939年(昭和14年)、東京市は有料で制限公開を開始、公営の公園として再出発している。1978年(昭和53年)には国の名勝、史跡としての指定を受け、現在も文化文政期の町民文化を感じさせる庭園として人々に愛されている。
佐原鞠塢は江戸で活動する文人墨客の協力のもと、彼らが集い、花々を愛でる場所として花園を造り、それを広く公開した。庶民文化の花開いた時代を象徴するものかもしれない。当初は360本の梅を植えて梅園として造られたということだが、やがて万葉集などに縁の草木など、さまざまな草花が植えられ、四季を通じて花々を愛でることのできる花園として定着したという。絵師の酒井抱一もこの花園の“常連”のひとりで、「百花園」の名も酒井抱一による命名という。開園当初は梅園としての性格が濃かったため、「梅は百花に魁けて咲く」ということから酒井抱一が命名したというのだが、他説には「四季百花の乱れ咲く園」との意味で「百花園」と呼ばれるようになったともいう。
江戸時代には多くの文人墨客に愛された百花園だが、明治期以降には荒廃した時期もあったという。洪水の被害も幾たびか被っている。開園時から“民営の花園”として続いてきた百花園だったが、ついに1938年(昭和13年)、最後の所有者から東京市へ譲渡され、翌1939年(昭和14年)、東京市は有料で制限公開を開始、公営の公園として再出発している。1978年(昭和53年)には国の名勝、史跡としての指定を受け、現在も文化文政期の町民文化を感じさせる庭園として人々に愛されている。