東京都中央区、銀座から晴海通りを海側へと進むと築地、さらに勝鬨橋を渡って月島、佃へと辿ることができる。築地場外市場や下町風情溢れる月島や佃など、東京の観光地として人気の高いところだ。晴天に恵まれた早春の日、銀座から佃までを歩いた。
築地、月島、佃島
築地、月島、佃島
銀座の中心部、銀座四丁目の交差点から晴海通り(都道304号)を南東へ向かって辿れば、東銀座から万年橋を経て築地四丁目の交差点、晴海通りの南西側には築地場外市場が広がっている。築地からさらに晴海通りを進み、勝鬨橋で隅田川を渡って勝どき、勝どきで左へ折れて進めば月島、月島の町を抜けて北東へと進むとやがて佃の町だ。銀座から佃まで距離としては3kmほどしかないが、銀座、築地、月島、佃と、どこも東京の観光地として人気の高いエリアだ。東京を代表する繁華街のひとつである銀座から下町風情溢れる月島、佃まで、のんびりと歩いてみよう。
歌舞伎座
歌舞伎座
銀座四丁目交差点から晴海通りを南東の方角へ、すなわち海側へ向かって進むと200mほどで都道316号との交差点、東銀座だ。この交差点の北東側に角に歌舞伎座が建っている。この建物は1950年(昭和25年)に完成した第四代目の歌舞伎座だ。1889年(明治22年)に初代歌舞伎座が完成して以来、老朽化や焼失などの理由で建て替えられてきた。現在の四代目歌舞伎座も老朽化のため、建て替えられることが決まっている。今年(2010年)の5月から解体工事が始まるとのことで、この第四代歌舞伎座の建物もそろそろ見納めだ。通り沿いにはカメラのレンズを向ける人の姿も少なくないが、同じ思いでこの建物を見ている人も多いに違いない。
追記 歌舞伎座は2010年5月から解体工事が始まり、2013年2月、第五代目の新しい歌舞伎座が竣工した。新歌舞伎座は「歌舞伎座タワー」と名付けられたオフィスビルを併設し、「GINZA KABUKIZA」と名付けられた複合施設になっている。
築地本願寺
築地本願寺
築地本願寺
歌舞伎座の前を過ぎてさらに晴海通りを400mほど進むと築地四丁目交差点だ。交差点の南西側には築地場外市場が広がり、北東側には築地本願寺が建っている。まず築地本願寺に立ち寄ってゆこう。

「築地本願寺」というのは通称で、正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」という。1617年(元和3年)に西本願寺の別院として建立されたものだそうだ。建立当時は浅草に近い横山町にあったが、世に言う「振袖火事」で焼失、現在地に移ったものらしい。移転当時はこの辺りは海で、門徒の人たちによって埋め立てられ、土地が築かれたのだそうだ。そうして再建された本堂もやがて関東大震災で焼失、現在のものは1934年(昭和9年)に完成したものという。インドの寺院を思わせる意匠の建物は東京帝国大学教授を務めた伊東忠太の設計によるものだ。建築に興味のある人は見ておきたい建物だろう。
築地場外市場
築地場外市場
築地場外市場
築地場外市場
築地本願寺に参拝した後は晴海通りを渡って築地場外市場へと歩を進めよう。築地場外市場とは東京都中央卸売市場築地本場(いわゆる「築地市場」)の外郭部に発展した商店街のことだ。

築地は「築地」という文字を見れば推測できるが、海を埋め立てて“築かれた土地”だ。埋め立てられたのは江戸時代初期のことらしく、築地本願寺の移転と同じ頃に周辺も埋め立てられたようだ。江戸時代の築地はほとんどが武家地だったそうで、大名の中屋敷や下屋敷、下級武士の屋敷などが並んでいたようだ。現在の築地市場の場所には松平定信が下屋敷を構えていたという。明治になると現在の明石町辺りに外国人居留地が造られ、西洋風の町並みが広がっていたらしい。

やがて関東大震災、その後の復興で築地も大きく変貌した。それまで日本橋にあった魚河岸が築地海軍技術研究所用地だったところに移転、東京都中央卸売市場築地本場、すなわち築地市場が開業する。和田堀に移転した築地本願寺の墓所の跡地には築地市場の活況を受けて水産物を商う業者などが店を構え始め、自然発生的に商店街が形成されていった。それが築地場外市場の始まりだという。
築地場外市場
築地場外市場
築地場外市場
近年、築地は“観光地”として人気が高い。特に築地市場のマグロの“セリ”の光景などは外国人観光客に人気で、観光客の見学のマナーなどが取り沙汰されたりもする。築地場外市場には水産物関連の店舗の他にもさまざまな店舗が軒を並べている。古そうな建物が並び、道が狭く、少々雑然とした商店街の雰囲気も“レトロ”な魅力を感じさせるものに違いない。しかしやはり観光客の最大の“目当て”は新鮮な魚介類を使った寿司や丼などの食事かもしれない。それらは決して“格安”という値段ではないと思うが、それぞれの店に行列が並んで賑わっている。

築地場外市場を訪れたのはちょうどお昼頃、さまざまな丼もののメニューが揃った店を選んで行列に加わった。席に通されるまで20分ほどは待っただろうか。10種類近くの魚介類の載った海鮮丼を注文した。美味しかったことは言うまでもない。
追記 東京都中央卸売市場は2018年(平成30年)に築地から豊洲に移転した。東京都中央卸売市場築地本場、いわゆる築地市場は同年10月6日に営業を終了、10月11日には豊洲市場が開場している。東京都中央卸売市場の豊洲移転後も、築地場外市場は移転することなく、これまで通り営業を継続している。
勝鬨橋
勝鬨橋
勝鬨橋
築地場外市場で空腹を満たした後は勝鬨橋を渡ろう。勝鬨橋は橋長246mで隅田川を跨いで晴海通りを渡している。勝鬨橋は関東大震災後の東京港修復工事の一環として造られたもので、1940年(昭和15年)に竣工している。勝鬨橋は中央部がハの字の形に跳ね上がる跳開橋で、隅田川の船の航行と橋を通行する陸運との共栄を図ったものだ。当時の最先端技術を結集して建造され、完成当時は跳開橋として東洋一の規模だったそうだ。やがて時代の変遷と共に橋の交通量は増加、一方で隅田川を航行する船は減少し、跳開橋もその役目を終え、1970年(昭和45年)11月29日の開閉を最後に、現在の勝鬨橋は開かれることはない。

今では開閉されることのない勝鬨橋だが、構造的にも貴重なもので、“近代可動橋の一つの技術的到達点”とのことで、国の重要文化財に指定されている。勝鬨橋の築地側の袂には、かつて橋の開閉のための変電所を改修して設けられた「かちどき橋の資料館」がある。興味のある人は見学してゆくといい。
勝鬨橋
勝鬨橋
ところで、「勝鬨」の名の由来は何だろうか。勝鬨橋の袂に「勝鬨の渡し」についての解説を記したプレートが設置されている。それによれば、月島側が発展するにつれて1892年(明治25年)に開設された「月島の渡し」だけでは交通をさばききれなくなり、1905年(明治38年)に日露戦争の旅順陥落を契機に有志が渡船場を設置して東京市に寄付したという。これが「勝鬨の渡し」である。「勝鬨」はすなわち“戦いに勝利してあげる鬨(とき)の声”というそのままの意味であるわけだ。「勝鬨の渡し」は大いに利用されていたということだが、関東大震災を機に架橋が求められ、勝鬨橋が建造されるのだが、このとき「勝鬨の渡し」の「勝鬨」がそのまま橋の名へと受け継がれたということらしい。
月島
月島
月島
勝鬨橋を渡ると「勝どき」の町だ。「鬨」の文字が当用漢字ではないため、住所や駅名は「勝どき」という表記になっている。もちろん埋め立てによって造られたところで、今は高層住宅などのビルが林立している。勝どきから晴海通りを左(北東側)へ折れて水路を越えると月島だ。

月島の「西仲通り」という名の通りを進もう。月島と言えば今では「もんじゃ」の町という印象になってしまった。通り沿いにも数多くのもんじゃの店が並ぶ。せっかく月島を訪れたのなら、どこかでもんじゃを食べていきたいところだが、残念ながら昼食を済ませたばかりだ。今回は町の雰囲気だけを味わいながら通り抜けてゆくことにしよう。
月島
月島
東京湾が埋め立てられて月島の土地が誕生したのは明治の中頃のことだそうだ。隅田川に堆積し続けて船舶の往来を妨げつつあった土砂を浚渫、その土砂で佃島の先を埋め立てて造成されたのが月島なのだそうだ。浚渫が始まったのは1887年(明治20年)、1892年(明治25年)に月島1号地(現在の月島)、1894年(明治27年)に月島2号地(現在の勝どき)、1896年(明治29年)に月島3号地(現在の佃三丁目)が誕生したという。当時の月島は重工業地帯で、工場や倉庫が建ち並び、労働者の住宅地も形成されていったらしい。月島と築地との往来は「月島の渡し」が担い、その船着き場に自然発生的に繁華街が形成され、それが現在の月島西仲通り商店街へと発展していったものという。
月島
月島
月島と言えば「もんじゃ」と共に下町風情溢れる「路地」が有名だが、これらの路地は大正期から昭和初期にかけての時期に形成されたものらしい。この頃の月島は人口も増え続け、長屋が建ち並んで路地が生まれた。月島は戦災を免れたため、当時の路地の風情がそのまま現在まで残っているのだという。当時、月島の子どもたちは駄菓子屋で「文字焼き」をおやつとして食べていた。「文字焼き」は小麦粉を溶いて鉄板で薄く焼き、醤油や蜜をつけて食べるもので、これが「もんじゃ」の原形なのだそうだ。「もじやき」が訛って「もんじゃ」に転じたのだろう。「もんじゃ焼き」と呼ぶのは誤り、という話を聞いたことがあるが、その由来を聞けば納得できるところだ。

「もんじゃ」の店の並ぶ西仲通りを歩いていると、横へ延びる路地の風情に誘われるのだが、地元の人の生活空間であることを思うと、不用意に足を踏み入れるのが憚られるような気もする。入口から覗いて写真を撮らせてもらうだけにしておこう。
佃
佃
月島の町を北西側へと通り抜けると、その先は佃だ。現在は佃の町と月島の町は一体化しており、ひとつの埋め立て地の北西側と南東側とを占めている形だが、月島が明治になって埋め立てられた土地であるのに対し、佃は元々が島だったという違いがある。「島」とは言っても砂州のようなもので、その周囲を埋め立てて人の住める土地にしたものらしい。

1590年(天正18年)、徳川家康が江戸城へ移った際、摂津国佃村の漁民三十三名が家康に伴って江戸に移り住んだ。この漁民たちが隅田川河口部の砂州を埋め立てて島を築き、そこに住まって漁業を営み始める。その島を、郷里に因んで「佃島」と名付けたという。佃村の漁民たちは「本能寺の変」が起きたとき、堺に滞在中に退路を断たれた家康の脱出に尽力し、以後も家康の信任を得て、庇護を受けるようになったものらしい。そのとき、佃村の漁民が小魚を煮付けて日持ちがするようにしたものを家康一行に献上したということだが、これが後の「佃煮」の原形なのだそうだ。
佃
佃
その最初期の佃島が、現在の佃一丁目に当たる。佃もまた戦災を免れ、昔ながらの細い路地が残っている。東側に広がる佃二丁目、三丁目は後の時代になって埋め立てられたものだ。佃二丁目から三丁目にかけては今では高層のマンションなどが建ち並び、近未来的な風景を見せているが、そうした風景と昔ながらの町並みとの対比も興趣に富んでいる。

佃一丁目の町を歩いていると、家と家との隙間のような路地とも呼べないような路地の入口に、「佃天台地蔵尊」と書かれているのを見つけた。その路地に入り込むと、路地の奥に、建ち並ぶ家々に組み込まれたような様相で地蔵尊が祀られている。その横手にはイチョウの木が聳えているが、周辺から見ると家の屋根からイチョウが生えているように見える。どのような経緯でこのような様相になったものか。興味を覚える。
佃
佃
隅田川から佃一丁目の町の中に引き込まれた水路の様子も良い風情だ。水路には赤い欄干の佃小橋が架かっている。水路の南側から見ると、小舟の浮かぶ水路と佃小橋、その周辺の町並みの向こうに高層ビルの林立する様子を一望することができる。この風景は現代の佃を象徴するものかもしれない。

佃小橋を西側に渡って北へ行くと住吉神社がある。1645年(正保2年)に佃島が築かれた後、1646年(正保3年)に、摂津国の住吉神社を勧請して建立したものという。佃島は江戸の湊の入口に位置していたため、海上安全、渡航安全の守護神として広く信仰を集めたという。現在も佃、月島、勝どき、晴海、豊海の氏神なのだそうだ。
佃
佃
住吉神社から隅田川へと向かうと、佃に引き込まれた水路に人道橋が架かっている。人道橋を渡ったところには佃公園が整備され、隅田川を望む場所に石川島灯台のモニュメントが置かれている。石川島灯台は1866年(慶応2年)、石川島人足寄場奉行清水純畸が築いたものという。往時を模したモニュメントを隅田川側から見上げると背景には高層ビルが聳えている。なかなか象徴的な風景だ。

今回は佃一丁目、すなわちかつての佃島の辺りを歩いただけだが、その歴史故か、下町風情溢れる素敵な町並みだ。下町散策の好きな人に人気が高いのも頷ける。機会を見つけて再訪したいと思わせてくれる町だ。
宵闇の迫る銀座
宵闇の迫る銀座
佃散策を楽しんだ後は銀座へ戻ろう。月島駅から東京メトロ有楽町線に乗り、銀座一丁目で降りる。喫茶店で一休みして、再び外へ出るとすでに宵闇の迫る時刻だ。暗くなり始めた空の下、街の灯りが輝きを増す。昼間の明るさが失われて夜の闇が訪れようとする僅かな時間、街の灯りは最も美しく輝く。街の賑わいを後に、そろそろ帰路を辿ろう。
参考情報
交通
この付近は東京のほぼ中心部だ。さまざまな路線のさまざまな駅を利用して訪れることができる。JR有楽町駅、JR新橋駅、銀座駅(東京メトロ日比谷線、銀座線、丸ノ内線)、東銀座駅(東京メトロ日比谷線、都営地下鉄浅草線)、築地駅(東京メトロ日比谷線)、銀座一丁目駅(東京メトロ有楽町線)、築地市場駅(都営地下鉄大江戸線)、勝どき駅(都営地下鉄大江戸線)、月島駅(東京メトロ有楽町線、都営地下鉄大江戸線)などが利用可能だろう。目的地に応じて便利な路線の便利な駅を利用すればいい。

銀座から佃まで数多くの駐車場が点在しており、車で訪れても駐車場を見つけることはできるだろう。規模の大きなものから小さなものまでさまざまだが、銀座付近の方が規模の大きな駐車場が多いようだ。ただし、何しろ東京の都心部、駐車料金も相応であることを覚悟しておかなくてはいけない。

飲食
飲食店も数多くあり、食事の場所に困ることはない。せっかく築地や月島を訪れたのであれば、やはり築地で新鮮な魚介類を使った丼を味わったり、月島で「もんじゃ」を食べてみるのがお勧めだろう。もちろん銀座のレストランで食事を楽しむのもいい。

周辺
銀座から西へ、皇居や日比谷公園へと散策の足を延ばすのも楽しい。あるいは新橋、汐留シオサイト方面へ、旧新橋停車場浜離宮恩賜庭園へと辿ってみるのもお勧めだ。

佃から清澄通りをさらに北西側へ辿り、相生橋を渡れば江東区だ。越中島公園で河岸散歩を楽しむのもいい。清澄通りを十数分歩けば門前仲町だ。深川不動や富岡八幡宮に参拝し、町歩きを楽しむのがお勧めだ。
町散歩
東京23区散歩