東京都中央区の浜離宮恩賜庭園は代表的な大名庭園のひとつだ。江戸時代には将軍家の別邸「浜御殿」であり、明治維新後には皇室の離宮「浜離宮」となった。九月の半ば、浜離宮恩賜庭園を訪ねた。
浜離宮恩賜庭園
東京都中央区の南端部に浜離宮恩賜庭園という都立公園がある。代表的な江戸時代の大名庭園として知られ、“観光地”としての認知度も高く、銀座や築地から近いこともあって多くの観光客を集めている。
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園
寛永年間(1600年代前半頃)まで、この辺りは一面の葦原だったという。江戸時代になってからは将軍家の鷹狩場として使われていたが、1654年(承応3年)、四代将軍家綱の弟であり甲府藩主であった松平綱重がこの場所を拝領し、埋め立てて屋敷を建て、甲府藩下屋敷とした。下屋敷は「甲府浜屋敷」、「海手屋敷」などと呼ばれたそうである。1709年(宝永6年)、松平綱重の子、徳川家宣が六代将軍になったのを機に、甲府浜屋敷は将軍家の別邸となり、改修が施され、名も「浜御殿」と改められた。以後、浜御殿は歴代将軍によって改修や造園が重ねられ、現在の姿になったのは十一代将軍家斉の頃だそうだ。家斉は浜御殿に設けられた鴨場での鷹狩りを好み、幾度も訪れていたそうである。
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園
明治維新の後は宮内省の所管となり、「浜離宮」と名が改められ、園地を復旧、皇室宴遊の地として使われた。1869年(明治2年)には「延遼館」が落成、外国貴賓来日の際の迎賓館として使われたそうだが、延遼館は1887年(明治20年)の地震で損壊、1889年(明治22年)に取り壊されている。その後、浜離宮は関東大震災や戦災を被り、往時の姿を失ってしまったという。

1945年(昭和20年)11月3日、浜離宮は東京都に下賜され、整備を経て1946年(昭和21年)4月から都立公園として一般に有料開放されている。「浜離宮恩賜庭園」という名はこれに由来している。1948年(昭和23年)には国の名勝、史跡に指定され、さらに1952年(昭和27年)に周囲の水面を含めて国の特別名勝、特別史跡に指定されている。
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園は25haほどと、かなり広い面積を有する。東側は隅田川河口部の東京湾に面し、北は築地川、南は汐留川、西にも水路があり、庭園は島のように周囲から隔てられている。北端部の角に設けられた大手門と、そこから300mほど南の海岸通り沿いに設けられた中の御門とが、橋によって周囲と繋がれた出入口だ。

園内は明治期以降の屋敷跡を整備した北庭と大名庭園の面影を残す南庭とのふたつのエリアから構成されている形だ。北庭のエリアにはふたつの出入口が設けられており、サービスセンターも置かれ、庭園のエントランスとしての役割も担っている。延遼館跡は松の美しい広場に整備され、内堀を越えた東側には草地の広場やお花畑なども置かれており、現代的な公園としての佇まいを見せる。南庭のエリアは海水を取り入れた「潮入りの池」を中心に、周囲に築山や植栽を施した大名庭園の姿を残している。園路を辿って園内を巡れば、北庭と南庭との表情の対比にもおもしろみがあり、さまざまに美しい景観を楽しむことができて飽きない。園内に立って周囲を見渡せば、緑濃い庭園の背景には現代的な高層ビルが林立する。その風景の対比も東京都心に残された庭園としてのひとつの興趣というものだろう。

庭園内には「庚申堂鴨場」と「新銭座鴨場」という二つの鴨場が残されている。どちらも1700年代に造られたものだそうだ。餌やおとりを使って引堀に鴨をおびき寄せ、網や鷹で捕らえるという猟が行われていたという。鴨場を見学する人は少ないようだが、訪れた時には見ておきたい。
浜離宮恩賜庭園
浜離宮恩賜庭園
「甲府浜御殿」や将軍家の「浜御殿」、皇室の「浜離宮」という歴代の名に「浜」の文字があることからもわかるが、ここはかつては東京湾を臨む海岸だった。現在では浜離宮恩賜庭園の眼前には中央区勝どきから豊海町にかけての街に林立するビル群が並んでおり、その向こうには晴海の街、さらに江東区豊洲や有明の街が広がっている。これらはすべて埋め立て地だ。かつてここが「浜御殿」や「浜離宮」だった頃には、そうした埋め立て地はまだなく、もちろん周辺のビル群の姿もなく、長閑な海岸の風景が広がっていたのだろう。東側の岸辺を歩きながら、対岸のビル群や水路を行き交う水上バスを眺めつつ、古い時代の風景を想像してみるのも一興だろう。
浜離宮恩賜庭園
大名庭園の風景を楽しめる南庭のエリアが浜離宮恩賜庭園の最大の魅力と言っていいが、広々とした北庭の風景もとても美しい。北庭には梅林やボタン園も設けられ、それぞれの季節に花を楽しむこともできる。四季折々に訪ねて、それぞれの季節の表情を楽しんでみたい。特別名勝、特別史跡の指定に恥じない、素晴らしい庭園である。
延遼館跡
大手門から浜離宮恩賜庭園に入園し、サービスセンター前を抜けて真っ直ぐに進んでゆくと延遼館跡の広場だ。今は松を中心に樹木を植栽した芝生の広場として整備されている。芝生内に立ち入ることはできないが、園路を辿るだけでもその美しさを充分に堪能できる。青々とした広場と、そこに植えられた松とが織り成す風景は気品ある美しさだ。その中を優美な曲線を描いて延びる園路も良いアクセントになっている。背景には周囲のビル群の姿が見えるが、澄んだ秋空の下、緑濃い庭園と現代的なビルの造形が不思議な調和を見せている。
浜離宮恩賜庭園/延遼館跡
サービスセンターに近い辺りに「延遼館跡」についての案内板が設置されている。延遼館は1869年(明治2年)に日本初の洋風石造建築物として落成したものだそうだ。外国要人の迎賓館として建てられたもので、1879年(明治12年)7月にはグラント将軍(第18代アメリカ大統領)夫妻一行が世界周遊の途中で来日、約二ヶ月間滞在し、盛大な歓迎を受けた旨が案内板には記されている。その後も多くの外国貴賓を迎えたが、1887年(明治20年)の地震で損壊し、1889年(明治22年)に取り壊されてしまったという。案内板には往時の延遼館の写真が添えられている。園路を歩きながら延遼館が建っていた頃の様子を想像してみるのも楽しい。
浜離宮恩賜庭園/延遼館跡
浜離宮恩賜庭園/延遼館跡
野外卓広場
延遼館跡の南側、中の御門から入園してすぐ右手には「野外卓広場」が設けられている。その名が示すように木製のアウトドアテーブルやベンチが設置された広場で、ピクニック感覚で楽しめる一角だ。広場内には松や楠など、さまざまな樹木が植栽され、潤いのある空間を成している。木陰のベンチを選んでお弁当を広げるのも楽しいひとときだ。
浜離宮恩賜庭園/野外卓広場
三百年の松
大手門から入園して左手に進むと、園路脇に見事な松がある。「三百年の松」との案内板がある。約300年前の1709年(宝永6年)、六代将軍徳川家宣が庭園を大改修したとき(すなわち「甲府浜屋敷」から将軍家別邸「浜御殿」となったとき)に植えられたと伝えられているそうだ。正面から見るとこんもりと半球状に広がった樹形が印象的だが、少し横手から見ると地を這うように広がった見事な枝振りを見ることができる。都内では最大級の黒松だという。
浜離宮恩賜庭園/三百年の松
浜離宮恩賜庭園/三百年の松
内堀広場とお花畑
「三百年の松」の横を過ぎ、内堀を渡って東へ辿ればお花畑が設けられ、その横には芝生の広場が設けられている。広場は「内堀広場」の名がある。内堀広場の東側は「ボタン園」だ。この辺りは一般的な都市公園的な佇まいを持つエリアだ。広場の木陰ではシートを敷いてくつろぐ家族連れの姿がある。お花畑では春には菜の花、秋にはコスモスが楽しめるという。今回訪れた9月中旬、お花畑の一角ではキバナコスモスが見頃を迎えていた。
浜離宮恩賜庭園/内堀広場とお花畑
浜離宮恩賜庭園/内堀広場とお花畑
将軍お上がり場
庭園の北東側の隅、水上バス発着場の東側に「将軍お上がり場」の遺構が原型を保ったまま残っている。かつて将軍が浜御殿に舟で訪れた際の舟着き場跡で、将軍が訪れるときにしか使われなかったという。浜離宮恩賜庭園に訪れた際は、これもぜひ見ておこう。
浜離宮恩賜庭園/将軍お上がり場
潮入の池
浜離宮恩賜庭園の南側を占めるのは、かつての将軍家別邸「浜御殿」時代の庭園の面影を残すエリアだ。中央部に大泉水を置き、周囲に植栽や築山を施し、その中に巡らされた小径を辿りながら刻々と変わる景観の表情、四季折々に見せる庭園の表情を楽しむ、「池泉回遊式庭園」である。
浜離宮恩賜庭園/潮入の池
浜離宮恩賜庭園に設けられている池は、海岸の立地を活かして「潮入の池」であることが特徴のひとつだ。“潮入”、すなわち海と通じる水路を設けて海水を池に引き込み、潮の満ち干によって変化する池の表情を楽しむような造りになっている。旧芝離宮恩賜庭園や清澄庭園の池もかつては“潮入の池”だったらしいが、両者とも現在では海水の取り入れはできなくなっており、浜離宮恩賜庭園の池が都内で唯一、現存する“潮入の池”であるらしい。海水の池であるので、当然のことながら池の中には海の魚が泳いでいる。

浜離宮恩賜庭園には「大泉水」と「横堀」の二つの大きな“潮入の池”がある。南側中央部に大泉水があり、大泉水は東側で横堀と水路で繋がっている。横堀は庭園の東側、南北に長く横たわり、北端部に海と繋がる水路が設けられている。この水路に水門が設けられ、東京湾の潮位に応じて開閉され、池の水位も変化するというわけだ。
浜離宮恩賜庭園/潮入の池
浜離宮恩賜庭園/潮入の池
大泉水は中央部に中島が浮かび、西側の岸辺と橋で繋がれている他、「お伝い橋」が南北の岸辺と中島とを繋いでいる。中島には「中島の御茶屋」が建っている。中島の御茶屋はそもそもは1707年(宝永4年)に後の六代将軍徳川家宣が建てたものだそうだ。現在のものは1983年(昭和58年)に復元されたものという。

大泉水と岸辺の木々や築山、中島とお伝い橋などが織り成す景観は風趣に富んでたいへんに美しい。岸辺の園路を辿れば場所によって景観はさまざまな表情を見せ、お伝い橋を渡ればまた違った視点で楽しめる。大泉水南東側に設けられた富士見山に登れば大泉水を少し高みから見下ろすことができ、その景観も素晴らしいものだ。それらの景観の背景には汐留シオサイトの現代的な高層ビルが建ち並んでいるが、それも都会に残された庭園の興趣のひとつだろう。

浜離宮恩賜庭園の大泉水とその周辺の景観は雄大なスケール感があり、圧倒的な存在感を放っている。品格を感じさせて堂々とした佇まいは周囲のビル群の印象に負けることなく、まるでそれらを“背後に従えている”かのようだ。さすがは将軍家の庭園である。
浜離宮恩賜庭園/潮入の池
浜離宮恩賜庭園/潮入の池
浜離宮恩賜庭園/潮入の池
横堀は南北に長く、適度に曲がりが与えられた造形から、池というより川のような印象の景観を見せる。岸辺の園路を辿れば、これもさまざまに美しい表情を見せてくれて飽きない。途中には「海手お伝い橋」が池を跨いでいる。橋の上から眺めるとまた景観の印象が変わる。岸辺には数羽の鵜と、その対岸には鷺の姿があった。池に泳ぐ魚を狙っているのか、あるいはただ羽を休めているのか、そうした鳥たちの姿も庭園の景観の一部として溶け込んでいる。
浜離宮恩賜庭園/潮入の池
かつて歴代の徳川将軍もお供の者たちに付き添われながら、こうして園内を巡ったのだろうか。その様子を想像しながら散策を楽しむのも一興だろう。
浜離宮恩賜庭園/潮入の池
参考情報
本欄の内容は浜離宮恩賜庭園関連ページ共通です
浜離宮恩賜庭園は入園料が必要だ。ペット連れの入園はできない。その他、開園日、開園時間、注意事項については東京都公園協会サイト(「関連する他のウェブサイト」欄のリンク先)を参照されたい。

交通
浜離宮恩賜庭園はJR新橋駅や東京メトロ銀座線新橋駅、都営地下鉄浅草線新橋駅、ゆりかもめ新橋駅、都営地下鉄大江戸線の汐留駅や築地市場駅などが近い。どの駅からも距離は1km足らず、徒歩で10分ほどで行ける。JR浜松町からは「中の御門橋」の入口へ1kmほど、東京モノレールを利用して来園するなら浜松町でJRに乗り換えるより歩いた方が早い。

浜離宮恩賜庭園には水上バスの発着所もあるから、水上バスで来園するのも楽しい。

車で訪れるなら国道15号を辿って新橋駅を目指せばいい。浜離宮恩賜庭園には一般来園者用の駐車場は用意されておらず、周辺の民間駐車場を利用しなくてはならない。新橋駅付近から汐留駅付近にかけて民間の駐車場が多数点在しており、規模の大きなものも少なくない。そうした駐車場に車を置き、徒歩で浜離宮恩賜庭園に向かえばいい。

首都高速道路を利用する場合は、東京高速道路(KK線)の新橋出入口や都心環状線の汐留出入口が至近だが、新橋出入口で降りることができるのは西銀座JCT方面から汐留JCT方面へ向かう方向のみ、汐留出入口では都心環状線内回り(浜崎橋JCT方面からの北行き方向)のみとなるので注意が必要だ。都心環状線外回りを利用して訪れる場合は銀座出入口で降りるといい。

飲食
庭園内の「中島の御茶屋」で菓子と抹茶のセットを楽しむことができるが、食事の可能なレストランなどはない。食事は新橋駅方面へ移動して店を探そう。

お弁当の持ち込みも可能とのことなので、お弁当持参での来園もお勧めだ。「内堀広場」や「野外卓広場」ならシートを敷くことも可能のようだ。

周辺
新橋駅の東側には旧新橋停車場鉄道歴史展示室がある。鉄道に興味のある人、日本の近代史に興味のある人なら訪ねておきたい。

「大手門口」から新大橋通りを東へ辿れば1km足らずで築地場外市場、さらに銀座や月島へも充分に歩ける距離だ。さらに少し足を延ばせば日比谷公園、皇居へも遠くはない。

「中の御門口」から南へ1kmほど(「大手門口」からも1.5km足らず)で旧芝離宮恩賜庭園だ。併せて訪ねて庭園巡りを楽しむのもお勧めだ。旧芝離宮恩賜庭園から西へ1kmほどで芝公園、足を延ばしてみるのもいい。
庭園散歩
東京23区散歩