横浜市中区
馬車道
Visited in May 1999
(本頁の内容には現況と異なる部分があります)
JR根岸線の「関内」駅を北口へ出てそのまま線路に沿って北西へ進むと、2ブロックほど先の交差点から海岸方向へ向けて洒落た雰囲気の通りが延びている。「馬車道」である。馬車道はさまざまな物事の「日本発祥」の舞台となった場所として知られている。その馬車道を、記念碑などを訪ねながらのんびりと歩いてみた。
その関内地区が大火に見舞われ、街の大部分が消失したのは1866年(慶応2年)のことだった。この火災からの復興の都市計画が幕府と開港場を利用していた諸外国との間で協議されたが、この時に三ヶ所に設置が決定された幅60フィートの道路のひとつが、この馬車道だった。その名の通り、「馬車の通れる道を」との外国人たちからの要望であったという。
当時の馬車道は文明開化の最先端の繁華街として賑わっていたのだろう。現在では決して広いとは言えない一方通行の道路だが、人の行き交いは賑やかだ。通り沿いにはコーヒーショップやレストラン、映画館をはじめ、さまざまな店が軒を並べて、舗道は花で飾られ、ベンチも置かれていて、散策するにも楽しい。
馬車道の吉田橋側、丸井が建つ場所の前の広場の片隅にひっそりと「近代街路樹発祥の地」の碑が建っている。1867年(慶応3年)、通り沿いに松と柳を連植したことを記念するものだ。現在の馬車道の街路樹はそれほど規模の大きなものではないが、美しく整備された街路の様子に当時を偲ぶこともできるだろう。
市営地下鉄の関内駅のある交差点を越えて歩を進めると、通りの右側(東側)舗道に太陽の母子像が置かれている。1869年(明治2年)に町田房造がこの像の向かい側付近ではじめてアイスクリームを販売したことを記念するものだ。
町田房造は渡米経験もある人物で、彼の開いた「氷水屋」は当時は「あいすくりん」と呼ばれたアイスクリームを日本で初めて製造販売する店だった。値段は高価で、当初は外国人にしか売れなかったという。この日本初のアイスクリーム製造販売を記念して、5月9日を「アイスクリームの日」と社団法人日本アイスクリーム協会が定めている。
町田房造は渡米経験もある人物で、彼の開いた「氷水屋」は当時は「あいすくりん」と呼ばれたアイスクリームを日本で初めて製造販売する店だった。値段は高価で、当初は外国人にしか売れなかったという。この日本初のアイスクリーム製造販売を記念して、5月9日を「アイスクリームの日」と社団法人日本アイスクリーム協会が定めている。
太陽の母子像からさらに海岸方向へ向かって進むと、関内ホールの前に日本最初のガス灯を記念するプレートがあり、傍らに当時のガス灯を復元したものが立ち、関内ホールの壁面には当時の馬車道の様子を描いたレリーフがある。いずれも関内ホールが新築された際に設置されたものであるという。
1870年(明治3年)、フランス人技師プレグランを招いて高島嘉右衛門がガス会社を設立、1872年(明治5年)に大江橋から馬車道、本町通りにかけて十数基の日本初のガス灯が灯った。これが日本に於けるガス事業の始まりだ。高島嘉右衛門の興したガス会社のあった跡として、現在の桜木町駅近くの本町小学校前に記念碑と復元ガス灯が設置されている。
高島嘉右衛門は幕末から明治維新期にかけての重要な実業家で、旅館業や土木業などでも成功していた人物だったが、この後プレグランとともに東京銀座にも85基のガスの火を灯している。1876年(明治9年)には東京府瓦斯局ができ、1885年(明治18年)には東京府瓦斯会社が設立された。現在の東京ガスである。
当時のガス灯の火は、はんてん姿の点灯方がひとつひとつ手作業で点灯していったものだという。風が吹けば簡単に消えてしまうようなものだったらしいが、その火は日本近代産業の幕開けと「文明開化」をまさに象徴していたものであったろう。
1870年(明治3年)、フランス人技師プレグランを招いて高島嘉右衛門がガス会社を設立、1872年(明治5年)に大江橋から馬車道、本町通りにかけて十数基の日本初のガス灯が灯った。これが日本に於けるガス事業の始まりだ。高島嘉右衛門の興したガス会社のあった跡として、現在の桜木町駅近くの本町小学校前に記念碑と復元ガス灯が設置されている。
高島嘉右衛門は幕末から明治維新期にかけての重要な実業家で、旅館業や土木業などでも成功していた人物だったが、この後プレグランとともに東京銀座にも85基のガスの火を灯している。1876年(明治9年)には東京府瓦斯局ができ、1885年(明治18年)には東京府瓦斯会社が設立された。現在の東京ガスである。
当時のガス灯の火は、はんてん姿の点灯方がひとつひとつ手作業で点灯していったものだという。風が吹けば簡単に消えてしまうようなものだったらしいが、その火は日本近代産業の幕開けと「文明開化」をまさに象徴していたものであったろう。
さらに進んで弁天通りとの交差点まで行くと、下岡蓮杖顕彰碑がある。下岡蓮杖は長崎の上野彦馬とともに日本の商業写真師の草分けとして知られているが、この碑は彼の写真館が弁天町にあったことから彼の功績を記念してここに設置されているものだ。
下岡蓮杖は伊豆の下田に生まれており、開港後に下田に着任したハリスの給仕となって、オランダ人通訳ヒュースケンから写真を学んだのだという。下岡が弁天通り沿いに写真館を開いたのは上野彦馬が長崎に写真館を開いたのとほぼ同時期で、1862年(文久2年)頃のことであるらしい。初めは迷信に惑わされて日本人客は少なかったということだが、次第に繁盛していったという。
下岡はまた写真家としても当時の東京や横浜の風景を撮影した写真を残しており、それらは重要な歴史資料となっている。伊豆下田には下岡の功績を讃えた「下岡蓮杖翁の碑」が建てられており、また同じく下田の蓮杖写真記念館に下岡の遺品などが展示されている。
下岡蓮杖は伊豆の下田に生まれており、開港後に下田に着任したハリスの給仕となって、オランダ人通訳ヒュースケンから写真を学んだのだという。下岡が弁天通り沿いに写真館を開いたのは上野彦馬が長崎に写真館を開いたのとほぼ同時期で、1862年(文久2年)頃のことであるらしい。初めは迷信に惑わされて日本人客は少なかったということだが、次第に繁盛していったという。
下岡はまた写真家としても当時の東京や横浜の風景を撮影した写真を残しており、それらは重要な歴史資料となっている。伊豆下田には下岡の功績を讃えた「下岡蓮杖翁の碑」が建てられており、また同じく下田の蓮杖写真記念館に下岡の遺品などが展示されている。
神奈川県立歴史博物館付近からさらに海岸に向けて進むと本町通りとの交差点が近い。そのまま本町通りへと散策の足を進めてもよいし、さらに万国橋通りから海岸通りへと進んでみても楽しめる。桜木町駅も近いのでみなとみらいへと足を進めてもよいだろう。もちろん関内駅方面へと戻って伊勢佐木町あたりを覗いてみるのもいい。
馬車道の西側に六道ノ辻通りという名の通りがある。有名なレストラン「馬車道十番館」のある通りだ。この通りは馬車道ほど賑やかではないが、飲食店が多く軒を並べており、どこかでのんびりと食事を楽しみたいという時には立ち寄ってみるとよいだろう。
馬車道は長さ600メートルほどで、歩いてみると意外なほど短いが、街路は美しく整備されていて散策は楽しい。ガイドブックを片手にさまざまな記念碑を訪ね歩くのも楽しいものだ。お昼時ともなると近辺のオフィスに勤める人たちがレストランなどに足を運ぶ姿が多いが、コーヒーショップの窓辺の席に座って街路を行き交う人々の姿を眺めながら過ごすひとときもなかなか楽しい。
【追記】
本文中に近代街路樹発祥の地の碑が「丸井が建つ場所の前の広場の片隅に」建っているとの記述があるが、1999年当時建っていた丸井はすでにない。【追記】
2004年(平成16年)2月には東急東横線との相互乗り入れとなる「みなとみらい線」が開業、馬車道と本町通りとの交差点付近に「馬車道駅」が誕生している。