「日本大通り」は
横浜公園の北側、「横浜公園」交差点から北へ延びて
横浜開港資料館横の「
海岸通り」との「開港資料館前」交差点へ至る通りだ。距離としては400mほどしかないが、道幅は広く、歩道も広く取られている。
この道路の生い立ちは明治維新の時代に遡る。1866年(慶応2年)、いわゆる「豚屋火事」と呼ばれる火災が発生した。この火災は折からの強風に煽られ関内地区のほとんどを焼き尽くしたという。この火災からの復興の際、幕府と諸外国との間で近代的都市計画に基づいた整備事業が取り決められた。時代はちょうど明治維新を迎え、復興事業は幕府から明治政府に引き継がれ、事業の指揮は英国人土木技師ブラントンが担った。
横浜公園自体もこの復興事業によって造られた公園だが、その公園から海岸に向けて幅120フィートの道路を通すことが事業に盛り込まれた。その幅の広さは火災の教訓から防火帯を兼ねていたようだ。出来上がった道路は幅60フィートの車道と両脇には30フィートずつの歩道が設けられ、近代的道路として日本で初めてのものだったらしい。その道路が現在の「日本大通り」というわけだ。ちなみにその復興事業では幅60フィートの道路も同時に整備されており、現在の
馬車道や
海岸通りなどがそうだという。
120フィートというと約36メートル、30フィートは約9メートルになる。日本大通りは幅9メートル強の歩道を両脇に設けられた、幅36メートル強の道路だということになる。かなり広い道路だ。
日本大通りの両端である「横浜公園」交差点と「開港資料館前」交差点はいずれも丁字路になっており、日本大通りは幹線道路のルート上の一部としては機能していない。そのために通り抜ける車もなく、車の通行も少ない。交差点の名からも容易に推測できるが、「横浜公園」交差点の南側には
横浜公園が横たわり、「開港資料館前」交差点の東側には
横浜開港資料館が建っている。また「開港資料館前」交差点は海岸部に整備された
象の鼻パークのメインエントランスにも当たっている。現在の日本大通りは横浜公園と象の鼻パークとを繋ぐプロムナードとしての役割も担っているのだろう。
その日本大通りの歩道部分にイチョウが並木として植えられている。このイチョウ並木が晩秋には黄金に染まって美しい景観を見せてくれる。この黄葉のイチョウ並木を目当てに散策に訪れる人も少なくないようだ。イチョウの黄葉そのものももちろん美しいのだが、沿道に建つ建物との取り合わせも横浜的風情を漂わせて興趣のあるものだ。中でも黄葉のイチョウの向こうに見上げる神奈川県庁の「キングの塔」や現在は横浜情報文化センターの一部となっている旧横浜商工奨励館の姿などが良い風情だ。広く取られた歩道には沿道のお店によるオープンカフェが設けられ、その様子もなかなかフォトジェニックだ。
日本大通りの周辺はいわゆるオフィス街なのだが、
横浜公園と
象の鼻パークとを繋ぐ立地によって観光客の姿も多い。イチョウ並木が黄葉に染まるこの季節にはさらに人出が多くなるようだ。黄葉のイチョウを見上げながら散策を楽しむ人、良い構図を見つけてカメラを構える人など、楽しみ方はそれぞれだ。日本大通りは横浜中心部を巡る観光周遊バス「あかいくつ」の運行ルートにもなっており、これを利用して訪れる人も少なくないのかもしれない。イチョウ並木の日本通りを走るレトロなデザインの「あかいくつ」の姿は異国情緒も感じさせて素敵だ。
余談だが、この日本大通り、直交する
本町通りとの交差点を頂点として両端ではわずかに標高が下がる。緩やかな勾配を伴っているのだ。「横浜」という地名は、江戸時代初期以前、この辺りが南側から細長く突き出た砂州であったことに由来するのだが、現在の日本大通りの長さは、その当時の砂州の幅の名残らしい。現在の横浜公園付近も
かつて入り江だったところを埋め立てた土地で、海岸通り側も当然明治期に波止場の築かれた海岸だった。日本大通りに残る緩やかな、わずかな勾配は、古い時代の砂州の地形の名残であるらしい。横浜と言えば開港期以降の歴史ばかりに目が行きがちだが、それ以前の姿にも関心を持ちつつ歩けば散策もさらに楽しくなるかもしれない。