横浜市中区横浜公園
横浜公園
Visited in July 1999
JR根岸線の関内駅を南口から出て、横浜市役所の横を線路に沿って歩いて行くと、みなと大通りを渡って横浜公園に辿り着く。今は横浜スタジアムがあることで広く知られる公園だが、公園自体、そして野球場も歴史は古く、横浜開港期にまで遡る。
現在横浜公園のある場所は幕末の開港直後は港崎(みよざき)遊郭があった場所だった。開港後の発展の中で港崎遊郭も歓楽街として大いに賑わったということだが、1866年(慶応2年)に起きた大火災のために遊郭は焼失してしまった。火元が末吉町(現在の太田町)の豚肉料理屋鉄五郎宅であったということから「豚屋火事」と呼ばれるこの火災は、11月26日朝8時頃に出火、遊郭を焼き尽くし、風に煽られて海岸へ向けて扇状に燃え広がり、午後10時頃まで燃え続けたのだという。結果、当時の関内地区の日本人街の3分の2、外国人居留地の4分の1が焼失する大火となった。
この火災からの復興に際して、港崎遊郭の跡地を公園とすること、その公園から海岸へ向けて防火帯を兼ねた幅120フィートの道路を通すことなどが諸外国と幕府の間で取り決められたが、時代は明治維新を迎え、復興事業は幕府から明治政府に引き継がれた。この復興事業は英国人土木技師ブラントンの設計によって公園や道路の整備に加えて上下水道の埋設や堀川の拡幅なども同時に行われ、近代的都市計画による新しい街を横浜に出現させることになった。
港崎遊郭の跡地を利用した公園から海岸へ向けて造られた道路は幅60フィートの車道と両脇に30フィートずつの歩道・緑地を設けたもので、日本初の近代的道路となった。現在の日本大通りがそれで、「日本大通」はそのまま町名ともなった。この時の都市計画では同時に幅60フィートの道路も整備されたが、馬車道と海岸通りなどがそれに当たる。
港崎遊郭のあった場所はもともと湿地帯だったが、港崎遊郭は関外へ移し、周囲の湿地を埋め立て、そこに近代的な公園が造成されることになった。現在の横浜公園である。これもブラントンの設計による公園はクリケット用のグラウンドも併設したもので、1874年(明治7年)に着工、1876年(明治9年)に完成、開園した。外国人と日本人の共同使用の公園として造られたもので、そこから「彼我公園」とも呼ばれたものだったが、当初はあまり日本人の利用者はいなかったという。この公園を日本初の西洋式公園とする記述などもあるが、実際の日本初の西洋式公園は山手公園だった。山手公園が外国人居留者のみに解放された公園であったのに対し、「彼我公園」は日本人にも解放された西洋式公園として日本初だったのだ。
公園に造られたクリケット場は野球場も兼ねており、1896年(明治29年)には日本初の(これには異説もあるらしいが)国際親善野球試合が行われたことでも知られている。戦後間もなくはアメリカによって接収されたがやがて返還、「平和球場」として親しまれた。現在の横浜スタジアムは1978年(昭和53年)に完成したもので、以来横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)の本拠として横浜市民に愛されている。1998年(平成10年)には横浜スタジアムで初の日本シリーズが開催され、横浜ベイスターズが日本一の座に輝いたことは記憶に新しい。
港崎遊郭の跡地を利用した公園から海岸へ向けて造られた道路は幅60フィートの車道と両脇に30フィートずつの歩道・緑地を設けたもので、日本初の近代的道路となった。現在の日本大通りがそれで、「日本大通」はそのまま町名ともなった。この時の都市計画では同時に幅60フィートの道路も整備されたが、馬車道と海岸通りなどがそれに当たる。
日本大通りから関内駅寄りの入口までを通り抜ける人々の姿が多いが、日本庭園部分や北西側の広場周辺のベンチには一休みする人たちの姿も少なくない。日本庭園部分の池を臨むデッキ部分にはいつでも必ず人の姿があり、自転車でやってきて池の鯉に餌をやる人もいる。木陰のベンチでのんびりと新聞を広げて一休みしているのは近辺のオフィスに勤める人なのだろうか。お昼時ともなれば、広場の周囲のベンチではお弁当を広げるOLたちの姿も見ることがある。横浜の街の中心部に位置する公園として、まさに「公園」としての役割を担っているということだろう。
3月下旬から4月にかけては園内を埋め尽くすほどのチューリップの花が植えられることでも有名だが、普段の公園はその歴史的由来以外に特に観光目的の人々に対しては魅力的とは言い難いかもしれない。関内駅から山下公園方面へと散策の足を延ばす際に、通り抜けるなどするとよいだろう。