横浜市中区
本町通り
Visited in October 2008
JR根岸線桜木町駅の南側から東へ、弁天橋を渡って本町通りが延びている。馬車道との交差点を過ぎ、神奈川県庁脇を抜け、中華街東門の前を通って、本町通りはやがて谷戸橋へ至る。谷戸橋を渡れば元町だ。本町通り沿いの街並みはいわゆるオフィス街で、建ち並ぶ建物の中には古い歴史を持つものも少なくない。この本町通りを歩いた。
谷戸橋の下には中村川が流れ、上には中村川を覆うように首都高速神奈川3号狩場線が通っている。谷戸橋を渡らずに駅前を右手(西側)に進めば元町の商店街、左手(東側)へ進めばすぐに港の見える丘公園だ。どちらも横浜の観光名所のひとつだが、今回は寄り道をせずに谷戸橋を渡って本町通りへと進もう。
交差点を渡ると山下町だ。通りの両脇にはビルが建ち並ぶ。しばらく歩いて行くと、「横浜天主堂跡」という名の交差点がある。交差点の南西側の角には「横浜天主堂跡」の碑がある。ここ山下町80番地(かつての横浜居留地80番地)は、1862年(文久元年)12月に開国後最初のカトリック教会の聖堂の献堂式が行われた場所という。
1906年(明治39年)には聖堂は山手44番(現在の山手町44番地)に移転、関東大震災で被災した後、再建されたものが現在山手本通り沿いに建つカトリック山手教会である。この碑は1962年(昭和37年)に天主堂創建100年を記念して建てられたものという。碑は通り沿いのビル群の間にひっそりと建っており、碑の傍らには由来などを記した解説板が設けられている。訪れたときには目を通しておきたい。
現在の朝陽門は2003年2月に完成したものという。色彩豊かで煌びやかな門の意匠が目を引く。青系の色彩が中心になっているように見えるのは、四聖獣のうちで東方を司るのが青龍だからだろうか。朝陽門は中華街の東の入り口を担い、山下公園側から訪れる観光客などにとってはまさに中華街の玄関口として機能していると言っていい。
だから関東大震災以前に建てられ、震災に耐えて残った貴重な建物のひとつということになる。それほど大きな建物ではないが、重厚な佇まいでイオニア式円柱などが目を引く。露亜銀行が移転した後、ドイツ領事館、横浜入国管理事務所を経て警友病院別館として使われていたが、1996年(平成8年)、みなとみらい地区に警友病院が新築されて移転、その後こちらの建物は”空き家”のまま残されている。貴重な文化遺産としての整備と保存が望まれる。
解説に目を通してみると、それぞれに作品には「ペリー提督横浜に上陸」、「新橋−横浜間鉄道開通」、「関東大震災」、「横浜大空襲」、「ベイブリッジ開通」との題があるようで、それぞれの“事件”が発生した年号と日時が記されている。例えば「関東大震災」は1923年(大正12年)9月1日午前11時58分44秒、あるいは「ベイブリッジ開通」は1989年(平成元年)9月27日午前11時で、それぞれの円形の作品に刻まれた扇形は、その時の時計の針の角度を示しているのだ。横浜の町が経験してきたエポックメイキングな出来事を、こうして作品としたものだろう。興味を覚えてつい見入ってしまった。
現在は4階が横浜都市発展記念館として、2階が横浜ユーラシア文化館として使われている。横浜都市発展記念館は展示施設で、横浜の「都市形成」、「市民のくらし」、「ヨコハマ文化」のテーマで横浜の歩みを紹介している。横浜ユーラシア文化館はその名が示すとおり、ユーラシア大陸の諸文化の美術品や資料を展示した施設だ。立ち寄って見学してゆくのも楽しそうだ。また「大桟橋入口」交差点の北西側の角に立つビルの裾には「電話交換創始の地碑」がある。これも見てゆこう。
明治になって日本でも郵便制度が整備され、徐々に普及していったものの、外国郵便物は各国の領事館が業務を行っており、それによる不都合もあったらしい。日本近代郵便制度設立を果たした前島密がここでも尽力、条約を締結して1875年(明治8年)から外国郵便物を日本の郵便局が扱うようになった。それに伴って外国郵便を取り扱うための横浜郵便局が本町1丁目に建てられた。それが現在の横浜港郵便局だ。「外国郵便創業の局」のプレートは百周年の1975年(昭和50年)に設けられたもののようだ。
横浜商工奨励館は関東大震災からの商工業復興を目的に建てられたもので、着工からわずか9ヶ月の期間で竣工したという。商品陳列所や商工会議所が置かれていたらしいが、それから70年を経て”情報”というものの拠点になっているのは、まさに時代の変遷を象徴している。ここも立ち寄って見学してゆきたいが、時間が足りなくなってしまうのが難点か。
神奈川県庁を右に見ながら本町通りを進む。すぐに「県庁前」交差点、みなと大通りとの交差点だ。交差点の南西側の角には横浜市開港記念会館が建っている。1909年(明治42年)の横浜開港50周年を記念して市民の寄付によって建てられたものという。1914年(大正3年)に着工、1917年(大正6年)に完成した。
関東大震災では内部やドームは消失したものの外壁は残り、1927年(昭和2年)に修復が施された。幸運にも戦災を免れ、戦後は米軍に接収されたが1958年(昭和33年)に返還、1960年(昭和35年)に横浜市開港記念会館として開館した。1989年(平成元年)には1927年(昭和2年)の修復時に復元されなかったドームがようやく復元され、国の重要文化財の指定を受けている。
現在もあくまで「公会堂」であるので使用中は見学できないが、ロビーや廊下などは見学できるようだ。ステンドグラスなどを見学しておきたいところだ。横浜市開港記念会館の東側の舗道脇には「岡倉天心生誕の地」の碑、「横浜商工会議所発祥の地」の碑、「横浜町会所跡」の碑が並び、横浜市開港記念会館が建つ以前のこの土地の由来を物語っている。これも見ておきたい。
ここは「本町1丁目」だ。NHK横浜放送局の前を過ぎると「本町1丁目」交差点、交差点の南西側角に三井住友銀行横浜支店(旧三井銀行横浜支店)が建っている。それほど大きな建物ではないがイオニア式円柱を施した重厚な意匠で、当時の銀行建築の典型とも言えるもので、日本橋の三井本館(国指定重要文化財)と同じ設計事務所が同じコンセプトで手掛けたもののようだ。1931年(昭和6年)の建築という。
1953年(昭和28年)に「横浜銀行協会」と名称が変わり、1965年(昭和40年)に四階部分が増築されている。古典とアール・デコの融合した建築様式で、建築に興味のある人の間では”名建築”として知られているようだ。内部も見学できるようだから、興味のある人は見学していくといい。蛇足だが、「横浜銀行協会」は「横浜銀行」の施設ではなく、横浜に本支店を置く諸銀行を会員とする社団法人である。
円柱を配したイオニア式の建築は三井住友銀行横浜支店などと同じく、当時の銀行建築の様式を代表するものだ。これも横浜市認定の歴史的建築物である。
安田銀行は当時全国各地に同じ様式で数多くの支店を建てたが、その中で最も規模の大きいものであるらしい。安田銀行はすなわち安田財閥系の銀行で、戦後の財閥解体の後、商号変更され、富士銀行となったものだ。現在のビル群の中では小さく見えるが、4本の円柱をあしらった外観は堂々とした佇まいだ。横浜市認定歴史的建造物である。
横浜第2合同庁舎が建てられる際、一度解体され、耐震補強などを施して復元されたものだ。隅と壁面に施されたレンガの赤が強い印象を残す建物だ。これも横浜市の歴史的建造物に認定されている。
ちなみに1990年に発行された地図を見てみると、みなとみらい大通りと本町通りをつなぐ北仲橋はまだ影も形もない。現在、北仲橋を渡ってみなとみらい大通りが延びてきている辺りには、1990年当時には第三管区海上保安本部があった。
この建物は現在(2008年)、「BankART 1929 Yokohama」として使われている。「BankART 1929」は公式サイトに依れば「横浜市が推進する歴史的建造物を活用した文化芸術創造の実験プログラム」だそうで、この建物は「BankART 1929 Yokohama」として「BankART 1929」の拠点を担っている。
現在は海岸通りに建つ旧日本郵船倉庫が「BankART Studio NYK」として「BankART 1929」のもう一つの拠点として使われているが、以前は馬車道との交差点の角に立つ旧富士銀行横浜支店の建物が「BankART 1929 馬車道」の名で使われていた。「BankART 1929」の「1929」は旧第一銀行横浜支店と旧富士銀行横浜支店の双方が1929年の建築であることに由来する。「BankART 1929」公式サイトには、1929年は「ニューヨーク近代美術館(MOMA)が設立された年でもあり、芸術にとっては記念すべき年」であるとも記されている。
「BankART 1929 Yokohama」を右に見ながら本町通りを西へ進めば、やがて弁天橋で大岡川を渡る。目の前は桜木町駅だ。今回の本町通り散歩もそろそろ終わりにして、桜木町駅から岐路を辿ろう。
やはり、というか、予定通りというか、歩いてみると本町通り沿いに並ぶさまざまな歴史的建築物を訪ねての散策になった。特に建築に興味があるわけではないが、こうして昭和初期に建てられた建物が数多く残る通りを歩いてみるのは楽しい。建築に興味のある人には興味が尽きないことだろう。